【ゆずれないから傷つける、傷ついてゆく】
買物から帰って、康久が熱を出した。 冷たいタオルを用意して、それを寝ている康久の額にのせる。 「気分は?」 「悪くないよ。疲れただけやと思う」 静かに問う涼太に、康久は笑って返した。 こんなことには、お互いに慣れていた。 伊勢にいたときでもよく康久は熱を出したし、涼太はその対処法も知っている。 一晩安静にしていれば、熱だけなら朝にはひいてる。別に大騒ぎする程度のものじゃない。 だが、翌日まで引きずるようなら、病院につれていこうと涼太は思った。 「明日から新学期やってのに、こんなんじや先が思いやられるなぁ」 小さな溜め息をついて、康久はつぶやく。 そんな仕草を見、涼太はふと康久のベッドに腰をおろして、もっと近い場所から康久の顔を覗きこんだ。 「今日のは知恵熱みたいなもんだ。魚済や前田が元気いいから、お前もつられてはしゃぎ過ぎただけ。慣れない環境だし、逆に慣れれば熱なんか出さなくなる」 もっともらしい口調で、涼太は康久へとそう言い聞かせた。 互いのオデコをくっつけて、熱を測りなおす。 言葉にできない思いを、触れ合いで伝える。 「涼ちゃんがそう言うなら、そうやね。早う慣れなね」 微熱のせいでちょっと赤い顔で、康久が笑う。 「標準語もきちんと喋れな、みんなに笑われるし」 「別にお前が標準語を喋る必要はないだろ。前にお前が俺に言ったんだぞ『涼ちゃんは標準語話してええんよ、僕に合わせて無理することあらへん』て」 「そうやった?」 前に、涼太が西とも東とも取れないイントネーションで喋るから、康久はそう言った。 涼太にしてみれば、康久と接するときは康久の土地の言葉でという思いがあったのだが、だてに東京に長く住んでるだけあって、土地の者からしたら心地悪い語調だったらしい。 東京でもなるべくは伊勢弁を使っていた涼太だが、和樹にまで変な喋り方だと言われ、標準語で通すことにしたのだ。 「それに、魚済が感動してたぜ。カッコイイって言って、最後は康久の真似してただろ? 最近は関西芸人がこっちで大モテだからな。お前がいまの言葉を通した所で笑われたりしないよ」 標準語を話す必要がないと言われて、ちょっと寂しさを感じた康久だが、征太郎の言動を思い出し笑いを漏らす。 「今日はえらい楽しかった。遠藤さんは優しい人やし、征太郎さんも尚弥さんも元気よくて、えらい気持ちいい人やったし、たっちゃんも相変わらず。和樹さんは、なんて言ってええのかわからんけど、なんか………いい人やね」 「また出かけたかったら、もっと体力つけろ」 康久の幸せが、自分の幸せだった。 笑っていてくれるのなら、その間は自分も幸せだと思う。 一年。留学期間にしては短い期間だったが、康久のいない一年は十年より長いと思った涼太。 自分で考えて行った海外留学だが、行っている間は不安で仕方なかった。 電話で話していても、それはいつもと変わらない回数でただ距離が遠いと言うことだけだったのに、同じ日本にいれないことがとてつもなくイラつかせることもあった。 なにかあったとき、すぐ飛んでは行けない距離が怖かった。 愛しい人の側、すぐ触れ合える距離にいる幸せ。 「涼ちゃんて、いい友達ばかりやな。今日会うた人たちもそうやし」 「今日のは和樹の友達だよ」 「わかる気がする。なんかいいよね、青葉さんて。あ、でもほら小林さんがいるやんか」 康久の指に触れて、それをからめて幸せに浸っていた涼太は、康久が口にした流成の名に現実に引き戻された。 「前に涼ちゃん、僕に学園祭のビデオ送ってくれたやろ? ほら、涼ちゃんがピアノ弾いてるやつ。あれに一緒に映ってたのって、小林さんやろ? 寮長の」 「……………」 「僕、涼ちゃんのピアノ弾く姿が好きで、繰り返しビデオ観てたんよ」 話に夢中な康久は、涼太の顔色が変わったのに気づかなかった。 涼太にとっては思い出したくもない思い出だということを、康久が知るはずもない。 いや、知られてはいけない。 「普段から涼ちゃんのことはきれいやなあと思うてたけど、ビデオの涼ちゃんは映画みたいやった。照明が青やったから、よけいそう感じたのかもしらんな」 「康久」 言葉を遮って、もう寝た方がいいと言い掛けたとき部屋にノック音が響いた。 ピクリと肩を揺らしたまま応えない涼太の代わりに、康久が「どうぞ」と応える。 「失礼………熱が出たんですって? 大丈夫ですか?」 心配そうに入ってきたのは、流成だった。 「すみません、寮長さんにまで心配させて………いま、ちょうど寮長さんの話をしてたんです」 「私の? それはまた………悪口ですか?」 涼太の突きささるような視線を受けながら、流成は康久のベッドの脇まで歩いてきた。 「前に、涼ちゃんと学園祭で共演しはったときの話を。涼ちゃんのピアノもよかったけど、寮長さんのヴァイオリンもよかった」 「ありがとう………あの時のビデオ、あなたが持ってたんですね」 康久に微笑みながらちらりと涼太に視線を落とすと、自分を見ないように視線を反らされていた。 その視線の先には康久しかいない。涼太の瞳には康久しか映さない。流成にはそう思えた。 涼太と自分が映っているというビデオも、生徒会が撮っていたと聞いて探したが、マスターテープもコピーも紛失していて、流成の手には入らなかった代物だ。 涼太が始末したことは感付いたが、それを康久が持ってることが流成には許せなかった。 康久が涼太にとって特別日な存在だということを、思い知らされた気がする。 「明日は入学式だけですが、出られそうですか?」 「はい。大丈夫です。ありがとう」 どんなときでも康久は視線を外さない。東京生まれの人間は、正面きって礼を言われることに慣れていないので、ちょっと動揺した。 「………朝、まだ熱が下がらないようで学校を休むようでしたらしたら言ってください。お大事に」 急に居心地の悪さを覚えて、流成は部屋から出ていった。 「いい人やね、ほんと」 ぱたんと閉じられたドアをみながら、康久はそう言った。 「外見だけだ。アイツには気をつけろよ」 流成が純粋に康久を心配してこの部屋にきたとは思っていない涼太は、心中穏やかにはいられなかった。 康久のべットから立ち上がると、電気を消して自分のべットに入る。 「友達のことそんなん言ったらあかん。どうしたん? 涼ちゃん」 「………なんでもない。気にするな。おやすみ」 ベッドライトも消して、部屋が真っ暗になる。 康久には、なぜ涼太が流成のことを悪く言ったのかがわからなかった。 いい人やね………心からそう思っていたから。 入学式から一週間もすると、新入生もたいがいが落ち着く。 もともと星陵学園は幼稚舎からのエスカレーターで、等部が変わっても学年が変わったぐらいにしか感じない。 まわりはみんな見知っているし、制服も高等部校舎も中等部校舎も造りはそんなに変わらない。 外部生はだから疎外感を感じるらしいが、康久は征太郎と尚弥のおかげでそんなことを感じないですんだ。 尚弥と同じクラスになれた康久は、いつでも尚弥が側にいてくれたし、青葉和樹のクラスとも近かったせいか「みんなでワイワイ」という楽しさを覚えた。 縦の関係にこだわらない和樹は、よく康久に目をかけてくれたし、そうすると和樹のまわりも康久に優しくしてくれた。 尚弥も征太郎も「ヤス」と親しみを込めて呼んでくれる。そんな呼ばれ方、いままで一度もしたことなかった。 くすぐったくて心地よい、そんな自分の居場所。 すべてが順風満帆、康久の夢の通りに軌跡が描かれていた。 なにより涼太が自分の側にいてくれる。それほど夢に見ていたことはなかったのだから。 「あれ?この曲………」 帰り支度をしていた康久の耳に、ピアノの旋律が届いた。 「ヤス! 帰らないのか?」 帰り支度を中断して窓を開け、その音がどこから聴こえるのかを探す康久に、尚弥は不思議そうにそう尋ねた。 「あ、ごめんね。ナオは部活やろ? 僕はまだ学校に残ってる」 「え? 学校に? でも今日、東原さんいないんだろ。大丈夫なのか?」 昼休みに涼太から「頼む」と言われていた。 一人にして大丈夫だろうかと、尚弥は思案する。 「大丈夫。ここんとこ体の調子はメチャいいんよ。ありがとう、心配してくれて」 「ヤスがそう言うなら………でも、気分悪くなったら、誰でもいいから近くの人に言うんだぞ」 「うん」 心配する尚弥に笑顔で応えて、康久は窓を閉めた。 「ナオも、部活頑張ってや」 カバンを持つと、音の聴こえた旧校舎へと急ぐ。 前に尚弥に学校案内をしてもらったときに教えてもらった音楽室は、旧校舎の三階。ピアノが置いてあるのは、たいがい音楽室と決まっている。 案の定、三階にくるとピアノの音は一段と大きくなった。 第二音楽室。高等部に二つあるうちのひとつから、そのピアノの音はしていた。 ドアにある小さなガラスの小窓から中を覗くと、ピアノを弾いている人物がわかった。 ちょっと迷ったものの、ここまできたのだからと康久は音楽室の扉を開けて中に入った。 その気配に、ピアノの旋律が止む。 「どうしました? 迷子ににでもなりましたか?」 邪魔されても嫌な顔ひとつせず、驚きもせず、その人………小林流成は康久に微笑んだ。 誰かが来ることを予測していたように。 「あ、あの、ピアノの音が聴こえたから」 「ピアノ、好きなの?」 「はい」 流成が、自分の座っていた椅子の横に別の椅子を用意してくれたので、康久はそこにちょこんと座った。 「弾ける?」 譜面代に広げてある教本を指して、流成は尋ねた。 康久はそれを手にとってパラパラとめくって、知った曲を見つけたのかページを開いて譜面代に戻した。 「涼ちゃんに教えてもらってるんやけど、涼ちゃんみたいにはよう弾けん」 「涼ちゃんはそんなに弾けるんだ」 康久を真似して、流成も涼太のことを「涼ちゃん」と呼んでみた。 「小林さん、普段も『涼ちゃん』て呼んではるの?」 ちょっと驚いた顔して、康久は流成をみた。 「え?」 どういう反応か見たかった。 涼太の友達の青葉でさえ、「東原」と名前は呼ばない。 もし自分が康久と同じように呼んでいると知ったら………予想していた反応を、康久はして見せた。 「僕以外に、あんま『涼ちゃん』なんて呼ばせないから。なんや、やっぱ涼ちゃん小林さんと仲いいやん」 流成の心中を知らない康久は、無邪気にそう笑った。 知らないということは、それだけで武器になる。よく切れる、刃の。 気ない康久のことばが、流成を大きく傷つける。 流成は、「僕は特別」と康久に言われたような気がした。 もちろん康久にそんな気持ちはこれっぽっちもなくて、ただ涼太の友達の流成とも友達になりたいと思っていただけだ。 「小林さんもピアノ弾けたんやね。やっぱり音楽やる人って、なんでもできるもんやろか」 くすくすと瞳を細めて、康久は鍵盤に手を置いた。 そしてちょっと恥ずかしそうに、目の前の譜「クシコシポスト」のさわり を弾いてみた。 「さっきの曲、涼ちゃんと共演ったときのやる? すぐ小林さんだなってわかった」 言いながら、今度は康久がその曲を弾きはじめる。 「『愛する人へ』はじめ聴いたときは、なんてせつない曲やろうって思った。小林さんの弾く姿も切なかったし、涼ちゃんも。でも大好きな曲のひとつ」 康久の瞳の奥で、あの時のビデオが映し出されているのが流成にはわかった。そして自分にも。 流成がひとりでピアノを弾くのは、あの日のことを思い出したいから。 旋律を奏でると、涼太の姿がすぐ浮かんでくる。 鍵盤を叩くたびにゆれた、あのきれいな髪の軌跡。やわらかな香りが甦る。 「涼太は? 一緒じゃなかったの?」 康久が旋律を思い出せない箇所を左で補いながら、流成は口を開いた。 もう「涼ちゃん」とは口にしない。それはやっぱり、康久にだけ許されていることなのだ。 本当は名前で呼ぶことすら自分は許されていない。 もし涼太がが聞いたら、また不快感を思いきり顔に出されると流成は苦笑した。 涼太のあの、自分に対する醒めた視線を思い出す。 「今日は涼ちゃん、バンドの練習やて。僕はみごと置いてかれてん。一人で留守番しててもつまんないから」 「バンド? 涼太が」 「ドラムやってるんよ。涼ちゃんなんでもこなすけど、ドラムがいちばん面白いんやて」 流成にそう説明しながら、今度は空で覚えている「子犬のワルツ」を康久は弾き始めた。 ピアノを弾くのが本当に楽しい。そんな表情だから、流成もなんとなくそれに付き合う。 涼太のことがなければ、康久は弟のように可愛いと思えたかもしれないと、ふと流成は思った。 どこかのんびりとした伊勢許りも、康久が話すと妙に可愛らしい。 素直で純粋な心で、慕ってくれてるのもわかる。 だからそんな康久の自分に対する好意が、空気を伝って肌にじかに浸透してくるようで、流成を少しずつ苛立たせていた。 「二年前、涼ちゃんを学祭に引っ張ったの、小林さんやろ?」 子犬のワルツが終わっても、康久は何も弾きださなかった。 「涼ちゃんああいう場に出るの大嫌いな人やし、僕不思議やったん」 康久の言う通り、「出てくれ」と頼んで出てくれる人じゃない。 だから、流成は裏から手を回し、涼太が余興に承諾せざるをえない状況に追い込んだ。 その時は、まさか涼太がピアノを弾けるとは知らなかった。 「練習」という大義名分のもとに、少しでも涼太と過ごせると思ったからだ。 だが現実は、涼太のピアノの腕は練習など必要ないほどだったし事実、本番まで音あわせひとつさせてはくれなかった。 「涼ちゃん、部屋にキーボード持ち込んだから、今度小林さんも顔出してください」 「今度ね」 涼太が自分を部屋に入れてくれるのなら………という言葉を、流成は胸の中でつぶやいた。 きっと涼太は許さない。わかっている。 「ねえ、華南くん」 代わりの言葉を流成は言葉にする。 「はい?」 康久は、流成の微笑みにつられて笑顔で流成を見上げた。 その純粋な笑顔が、なにものにも汚されていない瞳が、流成は大嫌いだった。 無邪気なだけよけいに。 守られて大事にされて、そのことにも気づかないでいる幸せなひと。 壊したくなる。汚したくなる。堕としたくなる。 康久が目の前にいると、なにかが自分の中で壊れる。崩されてゆく。 目の前で自分の言葉を待つ康久を傷つけたら、涼太はどんな顔するだろうか。 自分が大切にしているものに、手を出されたと知ったら。 「涼太と私の仲を壊さないでほしい。この意味、わかるよね?」 康久を可愛いと思う気持ちと、それとはまったく逆の残酷な気持ちが交差する。 一瞬何を言われたのかがわかっていない康久に、流成は優しく続けた。 「涼太はいつも言ってる。『康久は病気だからしかたがない。でも俺が愛してるのは流成だ』って」 そんなことは絶対ありえないことを、流成は言葉にする。 もしそうであったらという、流成の勝手な願い。 「涼ちゃんが………?」 康久の声が震えていた。 言われたことを飲みこんでも、信じられない。信じたくない。 流成は、そんな姿もイラついた。 きっといま康久の心はぐらぐらだろう。 だけどまだ自分の言葉を信用しないで、涼太を信頼している。 その信頼がいらただしい。 「私は、康久くんが好きだよ。でも………言われてませんか? 私に近づかないようにとか。私の口からこうやって話が出て、それであなたに気をつかわせるのがいやなんですね。涼太は。優しいから」 「ごめんなさい。僕知らなくて」 がたんと派手な音を立てて、康久は椅子から立ち上がった。 「ごめんなさいっ」 康久は逃げ出した。 血の毛の引いた顔色で、震えていた。 その姿が痛々しくて、少なからずも流成の胸は痛んだが、もうあとには戻れない。 「あなたがいけないんですよ」 音楽室を出てゆく康久の背中を見送りながら、流成はつぶやいた。 あなたが東原涼太の心を独占して、誰にも譲ろうとしないから。 もうどんなことをしても、康久から涼太を引き離したくなった。 心がなくたっていい。涼太に抱きしめられるためならば、どんなこともやる。どんな嘘もついてやる。 涼太のそばにいることが許されないのなら、康久だって自分は許さない。 「あなたがいけないんだ」 これから始まる虚しいだけの行為に、涙がつたった。 |