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「ん………………」 すっきりとした目覚めだった。 白い天井が目に入ってきたとき、一瞬病院のベッドにいるんだと錯覚してしまった。 どこだろう………ちょっとぼんやりする記憶を手繰り寄せて、僕は飛び起きた。 「えっ!?」 薄暗い部屋の中、一緒にいるはずの人の姿がない。 寝入ってからたいして時はたっていない? バスルームを振り返ったけど、電気は消されているし物音一つしていない。 時計で確認したら、僕は二時間も寝ていた事になる。 「嘘………」 思わずつぶやいてしまった。 さっきあの人が腕時計を置いていたサイドテーブルの上には、お金が置いてあった。 一万円札が三枚。シワのないピン札で。 何もしてないのに、お金? こんなホテルを取っておいて、シャワーまで浴びていた人が、そんな事をするだろうか。 それとも、寝ている間に何かされたのだろうか。 そう考えて、はっとした。 口の中に、何か味が残っている。いま気づいた。 テーブルの上に置かれたコップ。 中に水は入っていなかったけど、使用した形跡はある。 「薬を飲まされた?」 口に出して、その事実に青ざめる。 慌てて窓から街を見下ろした。 いるはずないとわかっていたけど、身体が動いた。 小さすぎる行き交う人影。でも、やっぱり探している人影は見当たらなかった。 コップの横に置かれたこの部屋のキーを手に取ると、僕は部屋を出た。 都合よくきたエレベーターに乗りこむと、先客が訝しげな視線を投げてくる。 こんな時間に僕がこんなとこにいるのが、不思議なのだろう。 でもそんな視線は無視して、一階のボタンを押した。 徐々に降りてゆく階数の表示を見ていたら、ふいに可笑しくなった。 死んじゃってもいいなんて、思ってたのに。 薬を飲まされたぐらいで、なにをこんなに慌ててるんだろう。 望んでたんだろう? 自問自答して、笑った。 乗り合わせたひとは、僕と目を合わせたら何かされるとばかりに僕から視線を逸らす。 さっきまでじろじろ見てたくせに、触らぬ神になんとかってやつだね。 いっそう可笑しさが増す。 一階に着いて扉が開いたとたんにみんなそそくさと降りて行った。 エレベーターを降りようかどうしようか迷った。 もうなに飲んでてもいいやってなったら、あの人を探すこともない。 「あっ!」 そう思っていたのに、さっきまで求めていた背中を見つけてしまって反射的に降りてしまった。 そのままひき返そうと思ったけど、フロントで支払いをしていたらしいあの人と目があってしまった。 財布を上着のポケットにしまいながら、ゆっくりと僕に近づいてくる。 逃げ出したい気持ちになったけど、足が動かなかった。 「目が覚めてしまったんだね。大丈夫かい?」 僕の前までくると、腕をとってエレベーターの前にいる僕を、邪魔にならない場所にさり気に移動させる。 「あの………」 すごく優しい目だった。 物腰も口調も柔らかくて、どうしてだろう鼻の奥がツンとして泣きそうになった。 「熱はひいたみたいだな」 すっと手を伸ばすと、僕の額に手を当ててそんなことを言う。 「え?」 「寝ている間に申し訳ないと思ったが、解熱剤を飲んでもらったよ。具合はどうだい?」 額からすっと手を首筋に降ろして、少し押さえつける。今度は脈をとっているらしかった。 「すまない、医者をしているんだ。悪いと思ったけど、その傷も見させてもらったよ。傷が開きかけてる。ちゃんと見てもらったほうがいい」 わき腹を指差されて、はっとした。 「ごめんなさい」 なにに対してだかわからないけど、咄嗟に口から出た。 「別に謝らなくてもいいよ。すまなかったね。具合が悪いのにつき合せてしまって」 「そんな………」 この人に謝られる筋合いなんてない。 そのつもりでここまで来たのに、何もしないでこのひとはお金を置いて部屋を出た。 それも、寝てる僕を怒りもせずに手当てまでして。 「残念だが、これから仕事なんだ」 「あの、お金返します。受け取れない」 どうして机の上のお金を持ってこなかったのかと後悔したけど、そんなの後の祭で。 「あれはとっておいて欲しい。気にしなくていいから」 「でもっ!」 言いつのってちょっと声が大きくなってしまった僕を、しっと言う口元に指を当てるしぐさでせいした。 「ごめんなさい………」 ここが、静かなホテルのロビーだということを忘れていた。 「だけど、受けれないです。何もしてないのに、あんなお金」 「……………」 声をひそめた僕の顔を、ちょっと思案げに見下ろす。 数秒考えてから、ふいにポケットをまさぐった。 取り出したのは、ミッキーマウスのキーホルダーがついてる鍵ひとつ。 「フロントに『ハイシティ』というマンションを訪ねるといい。君が申し訳ないと思うのなら、この部屋で待っていてくれないか?」 そう言って、僕に鍵を手渡した。 「部屋は802号室。表札は魚済と出ているから」 「魚済(うおずみ)………さん?」 「ああ。私は、魚済優治という。じゃ、君の好きにするといい」 それだけ言って、魚済さんは出口へと僕に背を向けて歩き出した。 振り返りもしなかった。 なぜあのひとは、こうも僕を信用しているのだろう。 マンションの鍵を見ず知らずの人間に与えるなんて、どうかしてる。 ひょっとしたら、僕は何かに巻き込まれようとしているのかもしれない。 あんなに優しそうな雰囲気を持っていても、実は黒い物を飼っているのかもしれない。 でも、僕は迷わなかった。 ホテルの部屋にとって返して、荷物をまとめると言われた通りにフロントで「ハイシティ」というマンションの場所を聞いた。 ホテルのひとが言う、「ここからだと五分ぐらいですよ」という言葉は本当だった。 近代的なまだ新しい高層マンション。 オートロック式の玄関だったけど、鍵をさして部屋番号を押したら簡単に扉は開かれた。 エレベーターを使って八階に上がると、少し驚いた。 マンション自体は大きいのに、扉が三つしかないってことは、一つ一つが広いってこと。 中に入って、また感嘆としてしまう。 部屋数は四つだけど、どれも広い。 バスルームだってキッチンだって、ゆったりと作ってある。 こんなの、ドラマのなかだけの部屋だと思ってた。 「うわぁ………」 窓際に立ってまた驚く。 広々としたベランダでは、ちょっとしたパーティーでもできそうだし、眼下には新宿新都心。 雨は上がっていた。 窓を開けてベランダに出ようとした時、電話のベルが鳴った。 ベランダに出るなと警告してるようで、慌てて窓を閉める。 電話は、三回コールして途切れてしまった。 「FAX?」 何か白い紙が電話から出てきたから、のぞきにいく。 それは、僕宛だった。 冷蔵庫の中のものや、棚の中の物は自由に飲んだり食べたりしていいってことと、電話には出ないで欲しいことが達筆で書いてあった。 近くにコンビニがあるとも、追記してある。 お金はリビングの棚の引出しの封筒に入ってるから、自由に使っていいともある。 文の右下には、魚済優治と署名があった。 まじめなひとなのかな。 そんな雰囲気はある。整った顔立ちも、そう思わせる。 生活感がないこの部屋。あの人はここに独りで暮らしているんだろうか。 冷蔵庫をあけて見たけど、生ものの類はいっさい入っていない。 嫌いだからないって言われればそれまでだけど、台所だって匂いがない。 調理してたら、少しでも油の匂いが台所に残るはず。 中身を食べていいって書いてあったけど、食べれるものなんて冷凍庫の中のレンジであっためるだけのチャーハンぐらいで、あとは酒のつまみみたいなものばっかりだった。 リビングのガラス張りのボードの中も、高価な洋酒ばかりが並んでた。 医者だといっていたけど、開業医かな。 もう一度FAXのきれいな文字を読み返して気づいた。 送付先の電話番号のあとに、カタカナで「ウオズミソウゴウビョウイン」とある。 「魚済って………すごい、魚済さんの病院? あ、薬剤師かもしれないし、経営のほうかもしれないんだよね」 納得がいった。 病院経営関係者なら、この部屋も維持できそうだ。 「なっ! なにこれっ」 引出しの中のお金を確認しようとして驚いた。 銀行の袋が膨れている。閉じない封の隙間、ひとめで百万円以上あるんだとわかった。 これを僕が持ち逃げするとは考えなかったのだろうか。 現金をこんな形で置いておくなんて無防備すぎる。 いままで、よく泥棒にあわなかったと、現金の束を見て思った。 マンション自体のセキュリティもしっかりしているけど、住んでる人がこんな無防備じゃ意味がない。 その束の中からお金を抜くのは気がひけて、僕は冷凍庫の中のチャーハンをあっためることにした。 お腹は空いてない気がするけれど、何も食べないでもしここでまた倒れてしまったら、あの人に迷惑をかけてしまう。 よほど世間離れしているひとだろうか。そうは見えないけれど。 そういえばこの家、テレビもない。ステレオは一見して高いとわかるような立派なのがあるけど、横の棚にあるCDはほとんどがクラシックだった。 僕もそんなにテレビを見るほうではないけれど、テレビ自体がない家というのははじめてだ。 何も音がしない。シンとした部屋はでも心地よくて、僕は腹が満たされたらまた眠くなって、ソファーに横になっているうちに眠ってしまった。 |
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よく寝るやつですな。 2005.01.18 |