【大切に想う記憶】

 経験するまで、知らなかったこと────────────。

 土曜日の午後、薄曇りから降りだした雨がやさしく部屋の窓をたたいていた。

「ねぇ、涼ちゃん」

「ん?」

 窓の外をじっと眺めていた康久は、自分のベッドの上でバンドスコアを書いている涼太を振り返った。

「涼ちゃんのファーストキスっていつやったん? どこで? 誰とどんな風に?」

「どうしたんだ、いきなり」

 なんの前触れのない言葉に、涼太は一度譜面から顔をあげたが、またすぐ視線を戻した。

「なんでそんなこと、聞きたがるんだ? いま」

「大石さん言うてた。涼ちゃん昔っから悪い噂しか聞かんかったって。女の子も、どれが彼女だかわかんないくらいいつも違う子といたって」

 軽く責めるような、探るような口調だった。

「青葉さんにも聞いたら、『そんな噂もあったかな』て言葉濁してた。僕の知らない涼ちゃんを、みんな知ってるみたいやな」

 康久は、和樹にまでそう言ったことがショックだった。

 噂なんて信じないと思ってはいても、本人が友達だと認めた和樹までそんなことを言うのだから、本当のことなんだと思った。

「………明日。鎌倉でも行こうか」

 これ以上スコアは書けないと思った涼太は、素直にぺンを置いてそれを机の上に投げた。

「話しそらした。なあ、涼ちゃん。ファーストキスって、やっぱりレモンの味がしたん?」

「やけにからむな」

 かけていた眼鏡を外すと、涼太はそれを胸のポケットにしまう。

「忘れたん? 涼ちゃんばドキドキしなかったん?」

 笑って誤魔化そうとする涼太を睨んで、なおも康久は食い下がった。

 意地にる。涼太が誤魔化そうとするから。

 自分の知らない涼太がいることが、康久は哀しかった。

 こんなに近くにいるのに、なんだかとても遠く涼太を感じる。

 伊勢と東京で離れていたときよりも、もっと遠い。

 とくに最近。夜中にふと目を覚ますと、隣のベッドに涼太がいない。

 どこに行ってるのかわかったが、康久はそれを口にするができなかった。

「鎌倉ならお寺もあるし観光には向いてる。こっちにきて、まだ観光らしきものしてないだろ?」

「涼ちゃん!」

 話を打ち切るようにぺットから立ち上がって、部屋を出かけた涼太を康久の声が追い掛けた。

「………覚えてるよ。相手は初恋の人」

 振り返った涼太が、そう言った。

「え?」

「ちゃんと覚えてる。昧は………しょっぱかったかな」

 懐かしそうにくすりと笑って、涼太はそう言った

。 「ったく。好奇心が旺盛になったな。前田の影響か?」

「別にそんなんじゃ………」

「知りたい盛りってとこだな。その手のことばかりで頭のいっぱいになる年頃だからな」

 年上風をふかせる涼太に、康久は抗議する。

「そ、そんなんやあらへんよ」

「俺の知ってることなら何でも教えてやるから、いつでも聞きな、性教育なら得意分野かもな。確かに」

 耳まで真っ赤にした康久をからかって、涼太は部屋のドアを閉じた。

「しょっぱかったよなー」

  忘れたことなんかない。

 数えきれないぐらいのキスをしてきた。でも、一番ドキドキしたキスはあのキスだけ。

 いまでも思い出せば胸が震えて鼓動が速くなる。

 冗談にならないほど大切な、記憶だった。

 いつかの夏、同じような会話を交わしたあとの。

「あんまりはしゃいだりせんといてね。また熱がでてもしらんよ」

 この地方ではめずらしいほどの白い母親の言葉に、康久は素直にうなずいた。

 自分の病気が白血病だとわかってから三年。入退院を繰り返し、無菌室にも何度かお世話になっていた。

 いちばん最近お世話になったのは一ヵ月前、風邪をこじらせたとき。

 長い梅雨がなかなか明けず、気温の変化についてゆけなくて風邪をひいた。退院したのはつい最近のこと。

 母親が過保護になるのもわかる。

「じゃ、涼太くんよろしくなぁ。もうすっかりわがままになってしもうたから、この子の相手は大変やろ」

「いえ」

 終業式はおろか、期末テストが終わったその日のうちにここへきてしまった涼太は「慣れてますから」と笑った。

 心配性な康久の母親を、春休みに逢ったときよりやつれたなと涼太は感じた。

 看病疲れだろう。病気は本人もそうだけど、介護の側の体カも消耗させるところがあるというから。

「うさぎの浜へ散歩するだけだから。タ食までには戻ります」

 毎日十何時間一緒にいて、ずっと話をしても尽きない話題がある。

 寝るのも惜しいほど、一緒の瞬間を過ごしたい。

 それが二人の望みだった。

「どこにもいくなよ」

「え?」

 岩場で遊んでる康久に、涼太は思わずつぶやいていた。

「なんて言うたん? よう聞こえんかった」

 午後になって少しだけ強まった風で髪が乱れる。その髪をかきあげて康久は振リ返った。

「………遠くにいくなよ。もう波が高いから」

 暮れはじめた空に康久が溶けてゆくような錯覚。

 こんなに側にいるのに、なぜこんなに寂しく感じてしまうのかが涼太にはわからなかった。

 すっかり痩せてしまった康久。  しばらくぶりに再会するたびに、薄くなるような影。

 その存在はとても儚くて優くて、泣きそうなほどせつない。

「涼ちゃん、バンドはじめたんやてね」

 防波堤の突端に座っていた涼太の横に腰を下ろした康久が、興味津々という風に瞳を輝かせた。

「恵さんが、普段から家にいないのに、もっといなくなったって言うてた。そんなに楽しいん?」

「はじめたばかりだから、な」

 この防波堤に座って、目の前の海で霞が魚を釣っていたのは三年前なのに、康久はつい昨日の事のように思えた。

 あの夏から何も変わらない。

 過保護以上に身体に気をつかわなければならないこと以外、何も。

 身体は衰えても、気持ち的にはなにも。

 やがてこのままななら、この身体は刻を止める。

 そんなこと思えなかった。思いたくなかった。

 せめて痛みがあるのなら、自覚も一覚悟もできるのにと、康久は涼太のきれいな横顔を見つめて思った。

「夏が終わらなければいい………ずっと、このままいたいな」

 ずっと一緒にいたいから。

 きれいだけど退屈な、この狭い楽園に独りで閉じこめられるのは嫌いだった。

 涼太が帰ってしまった後に特に強く感じてしまう。自分が硝子でできた寵の中にいる鳥だと。

「終わらない夏なんてない」

「涼ちゃん………」

 ふとつぶやかれた涼太の言葉に、康久は泣きそうになった。

 自分が思っていることを、涼太も思ってるなんてのはわがままな考えだけど、でもそう思っていてほしかった。

「夏が終わらなきや、次の季節だってこない」

 遠く水平線を見ていた瞳を、康久に向けると涼太は笑う。

「明けない夜はないだろ? 朝は必ずくるんだし。来年だって、暑かろうが寒かろうが夏はくる。同じ毎日を過ごすほど退屈なことはないと思うぞ」

「そうやね」

 ついこの間まで無菌室の孤独のなかにいたから、すごく弱気になってたのかもしれない。

 独りの孤独。つぶされてしまいそうな胸の不安。眠ってしまったら、もう次は目を覚ませないんじゃないかという恐い思念。

 でもいまの涼太の言葉が、微笑みが違うと教えてくれた。

「来年も再来年もずっと、同じようで違う夏が来る。『永遠』なんて安っぽい言葉だけど、お前がいる永遠なら、最高の贅沢だな」

「永遠なんていらん。涼ちゃんがいてくれるなら」

 それ以上何も望まない。望めば、それだけで壊れてしまう気がした。

 大事だと思う人がいれば、永遠なんて望まない。大事な人がいなければ、永遠なんて意味がない。

 譲りたい人がいなければ、生きてたって何の意味ももたないのだと、涼太は遠い水平線をみながら思う。

「波が高くなってきたな」

 満ちた潮で足元にまで、防波堤で砕けた波が届く。

 冷たくて、火照った肌に気持ちが良かった。

「ファーストキスって、どんな味なんやろね」

「え?」

 もう帰ろうと言い掛けた涼太に、康久はうつむいたままそうつぶやいた。

「昨日貸してくれたマンガにもあったやん。『レモンの味』ゆうて。………涼ちゃんはもうしたん?」

「康久………」

 笑って誤魔化そうとしたが、康久の真面目な顔に思わず涼太は黙り込んだ。

「涼ちゃんかっこええし、すごいきれいやからモテるやろ? ガールフレンドも多そうやしな。なあ、どんなんやった?」

「どんなって………」

 涼太が、答えに詰まる。 「こればっかりは相手がいないとなぁ。学校で好きな子いないのか?」

「好きな子なんて………」

 消え入りそうな声で、康久はそう答えた。

 なぜそう思うのかわからなかったけど、妙に泣きたい気持ちになった。

 我慢していないと、涙があふれてしまう。

 そんな康久をみて、涼太はくすりと目を細めて笑った。

「涼ちゃん?」

 なにがおかしいの?という風に、康久は涼太の顔を見上げた。

「目、閉じろよ」

「……………うん」

 涼太がなにを考えてるのかわかった。だから康久は、言われた通り素直に瞳を閉じた。

 弾みであふれてしまった涙を、やさしい指がぬぐってくれた。

「本当にいいのか? 俺で」

 ギュッと目を瞑った康久が、こくんとうなずく。

 顎をつかんで軽く上向きにさせると、涼太は自分の唇でそっと康久の唇にふれた。

 それだけだった。

「どうだった?」

 高波の飛沫を浴びた涼太は、顔に付いた飛沫を拭いながら康久に笑いかけた。

 気まずくなんてなりたくなかったから、できるだけ平静に掠太は振る舞った。

 ただの好奇心に応えただけでも、キスはキス。それも同性との。

 これが普通じゃないことぐらいは、痛いほど知っていた。

 現に、後ろめたさで胸が騒ぐ。

 だから、そんなものに康久まで捕われないようにと、軽い冗談を装った。

「どうって………」

 耳まで真っ赤の康久が答えられるはずもなく、胸の鼓動を誤魔化すように慌てて立ち上がった。

「もう遅いし、帰らな」

 恥ずかしさで涼太に背を向けて、康久は防波堤を陸の方へと歩きだした。

「ファーストキスの味は?」

 先を歩く背中を眺めて、涼太はさっきの康久の質間を思い出した。

「海の昧だったな」

 つぶやきは波の音がかき消して康久まで届かない。


「今夜来てくださいね」

 寮の廊下で涼太とすれ違いざま、流成はその耳元にそう囁いた。

「わかった」

 立ち止まったのは一瞬で、涼太は顔色ひとつ変えずそう答える。

「気が変わりました」

 そんな涼太の無感情が哀しくて、流成は立ち去ろうとする背中を呼び止める。

「抱いてください。いますぐ」

 思い詰めたような瞳が、涼太を見つめた。

「あなたを感じさせてください」

 


【重ねる秘密、降り出す雨音】