【満たされぬ恋情】

「惜しかったな」

「五点差ってことは、一問が勝敗を分けたな」

「たまにはいいじゃないか。いつも一番だと、有り難みもないだろ」

 校内に張り出された、一学期末テストの順位表。その前で、小林流成はクラスの友達にそう言われながら肩をたたかれていた。

 たたかれた流成の方は苦笑で返しながら、自分の上にただ一人書かれた名前に見入っていた。

「東原涼太」

 いままで一度として百位以内に顔を出したことのない名前に、興味を覚えた。

 初等部で星陵に入学してきてから、成績は常に学年トップを維持してきた。

 それが、中等部に入ったとたんに覆されてしまった。

 不思議と、ずっと守ってきた一番を明け渡してしまったことに残念とか、悔しいとかいう思いが流成には湧いてこなかった。

 逆に、どこか嬉しくさえ感じていた。

 少しぐらいは、自分を負かしてくれる輩が側にいた方がいい。

 ライバルという張り合いがいないと自分も伸びないと知っていた。

「だけど一番が東原なんてなぁ………あいつ、いったいいつ勉強してんだ?」

「知ってるのかい?」

 隣で自分の成績に不満顔の三笠優一に、流成は思わず聞いた。

「初等部で、四年と六年の時に一緒だったよ」

 優一は人のいい笑顔でそう答えると、もう一度自分の順位を確かめた。

 六十二番。何度見ても変わりはない。

「小林が知らなかったのも無理ないと思うよ。なんせ表に立つのが嫌いで、故意にテストの点を操作するみたいなところがあるから」

「何のメリットがあるんだい、そんなことして」

「さあね。でもこれは俺の見解で、本当に頭はよくないのかもしれないな。当てずっぽうがたまたま当たっただけとか」

 そんなに親しくなかったからと、優一は付け加えた。

 どこか近寄りがたい感じがして、クラスが一緒のときでもほとんど私的な話をした覚えがない。

「見た目きれいな顔立ちだけビ、それがかえつて近寄りがたいし、なにより東原いい噂聞かなかったから」

「不良?」

「そういうんじやないけど、ま、どっちにしろ小林とは無縁のヤツだよ」

 そう言ってにっこりと笑った優一に、流成は苦笑いを返すしかなかった。

 せっかく興味を持ったのに無縁なんてと、、そんな思いだけが、流成の心に残った。

 東原涼太 ────────────その名前だけが心に残った。

 流成が次に東原涼太の名前を聞いたのは、中等部二年の冬休み前。

 中等部専用書庫室で、喫煙をしていた数人の話の中だった。

 普段からめったに人気のない書庫室に人影があり、そのうえドアの際間から明らかに喫煙の見られる煙が漏れていたのだから、当時図書委員をしていた流成はそのまま見逃すということ ができなかった。

「だけどあの東原のヤツも凄いよなあ」

 ドアの外丸聞こえの声、「東原」という名前に流成はドアを開けようとした手を止めた。

「菅センと、今度の科学満点探れるか採れないかで賭けたらしいじゃん」

「あいつ満点だろ? 模範解答みたいだったって、菅セン後で舌打ちしたらしいぜ。一点でも欠けたら、冬休み返上で補習させてやるって公言してたもんな」

「平均点五十三点だろ? 俺なんか二十点しかとれなかったぜ」

「そりゃ、お前の頭が悪いんだよ。東原は、普段爪隠してるだけで、今回みたいなときは凄いヤツなんだよ」

「できるヤツは違うよな」

 ケタケタと、下品な笑いがせまい書庫室にこだまする。

 流成は、いつこのドアを開けていいものかビうか迷った。

 星陵に札付きの悪がいるはずないのだが、やはり喫煙をしているところに踏み込んで注意をあたえるという行為には勇気がいる。

 それに、もっと東原の話を聞きたかった。

「そういえば、去年あいついきなり期末テストだかなんだかで一番とったことがあっただろ。あれも担任と夏休みの補習を賭けたって話だぜ」

 その話の内容に、流成は身体をぴくりと強ばらせた。

「マジ? そうだったのかよ。あれ以来名前が入らないから、まぐれだと思ったぜ」

 中の誰かが、流成のずっと思っていたことを口にした。

 そう。初めて自分を万年一香の座から降ろした相手は、ただの一回だけで、その後は壁に貼りだされもしなかったのだ。

 順位表は百位までを発表するものだから、百位以内にも入ってないということになる。

「まぐれ? あいつ頭いいぜ、実は」

 まぐれで一番なんかとれるものじゃない。

 流成は、あのとき優一が言っていた言葉を思い出した。

「表に立つのが嫌いで、故意にテストの点を操作する」

 優一はそう言っていた。

「なにやってんだよアンタ。立ち聞きなんて悪趣味だな」

 ドアに耳をそばだてて中の会話に聞き入っていた流成は、いきなり肩を捕まれて息が止まりそうになった。

「図書委員? どいてくんない、そこ邪魔なんだけど」

「君は………」

 肩より少し長い茶髪をうるさそうにかきあげた人物に、流成は少し驚いた。

 長髪や脱色は珍しくもないが、妙に人を惹く容姿だった。

 なにより、流成のまわりにはいないタイプだった。

「どけって言ってんだよ」

 イライラと舌打ちされて、流成は慌ててドアの前から身をひいた。

 ちらりと流された冷たい視線に、なぜか全身に鳥肌が立つ。

「おせー! 東原ァ」

 ノックもなしに書庫室の一扉を開けた人物は、「悪い」と片手を挙げて応えた。

「東原涼太」

「ゲっ! 小林じゃんか」

 思わず声に出して涼太の名前をつぶやいた流成に気づいて、中の連中は慌てて手に持っていた煙草をもみ消した。

「なんでそんなシケたヤツ連れてきてんだよ」

 今更だが、書庫室の小窓を開けてパタバタと外へ煙を出してる一人が眉を堅めた。

 一年が一人と三年が二人。流成も顔だけは見たことがある、あまりいい噂の聞かない連中が涼太を囲んでいた。

「が、学校で喫煙なんてしないでもらいたい」

 声が震える。目が離せない。胸の動悸に目眩がした。

 なぜこんなに緊張するんだろうと、流成は唾を飲み込む。

 悪いことをしているのは目の前の連中なのに、東原涼太が目の前にいるだけで圧倒される。

「特にここは、火気厳禁です」

「先生に言い付ける? 校内喫煙者は一週間以上の停学。へたすると退学だったっけ?」

 薄い笑みを作り、目を細めて涼太は言った。

 慣れた仕草で煙草に火をつけると、堂々と目の前で吸ってみせる。

「これで俺も同罪。言う? 先生に」

「……………」

 挑発的な涼太の態度に魅せられて、流成は言葉を忘れていた。

「言ってもいいけど、俺なにするかわかんないぜ」

 流成が告げ口できないとわかっていながら、涼太はあえて追い打ちをかけるようにそう言った。

「待たせて悪いけど、俺これから野暮用だから」

「また女かよ」

「妬かない、妬かない。じゃ、俺行くわ」

 来たときと同様、軽く手を挙げて涼太は部屋をを出ていった。

「ったく女とっかえひっかえでいいよなあ」

 そんなことを言いながら、あとの三人も流成の横を通って部屋を出てゆく。

 かすかな髪の残り香とタバコの匂いが、流成の心を騒がせた。

 彼の香り。そう思うだけで、胸が痛くなる気がした。

 名前をつぶやくだけで、想うだけで心が騒ぐ。

 気づけば彼の姿を探してる自分に気づく。

 どこか落ち着かなくて、一日が早い。

 いままで経験したことのない胸の動悸に、流成はそれが恋だと知った。

 小林流成、十四歳────────────遅い初恋。


「え?」

 信じたくない優一の言葉に、思わず流成は聞き返してしまった。

「なんだ、知らねえの? 小林のことだから、知ってると思ってたよ」

 焼きそばパンをかじりながら、優一は不思議そうな顔をした。

「東原、来年留学だってよ。たった一年だけど、帰ってきたって帰国子女扱いだから、俺らのいつこ下になるらしい」

「留学?」

 信じたくない言葉を、流成は繰り返した。

「普段東原のことあんなに目の敵にしてるくせに……………」

「目の敵になんか!」

 してない!目の敵になんて………流成はそう叫びたかった。

 でも、まわりの人間はそうみてる。悲しいほど。

 自分の恋心に素直に、流成は涼太を追い掛けた。

 でもそれは涼大には迷惑なことで、それがわかってる流成は心と裏腹の行動をとってしまう。

 どこまでも交わることのないレール。涼太と康久の関係は。

 涼太は自分を煙たがっていた。

 だから、せつない想いさえ表に出すこともなく恋心は押し殺してきたのに、当然涼太も高等部に持ち上がるのだから、焦ることもないと思っていたのに、一年とはいえ海外へ恋しい人が行くなんて、流成は胸をひと掴みにされる思いだった。

「本当なんですか?その話」

「なに深刻な顔してるんだよ。そんなにストレス解消の相手がいなくなるのが許せない?」

 くすくすと、優一はからかうように笑った。

「いつもクールフェイスで誰にも『無関心』のような小林が、東原にだけは違ったもんな。目くじらたてて東原の粗探して、事あるごとに突っ掛かって。お前でも、人に当たることあるんだなって安心してた。人間みたいでホッとした」

「私、そんな風に見えますか?」

「なんかね。俺はそう見えただけ………でも俺の思い違いかもな。俺、お前がなに考えてんのかわかんないよ、実際。ま、そんなお前でも、俺は友達やってけるし、好きだよ、小林のそういうとこもさ」

 まるで告白めいた台詞だが、言った方に全然そんな気は無い。

 誰にでもというわけではないが、優一のこの手の台詞は流成も聞き慣れていた。

「アイツいま数学の高センのとこに呼ばれてるぜ」

「私がそこにいけば、優一は満足するんですね」

「まあね。ついでに、派手にやりあってくれるともっと満足」

 くすくすと目を細めて、優一は流成を送り出した。

「うまくいくといいな」

 気づいていないフリをするのも楽じゃないと、優一はため息つく。

 初恋は叶わない。そんなジンクス信じていないから。

 その大切で傷つきやすい恋が、うまくいってほしい。

 優一は、友達の恋の成就を心から願っていた。

 初恋────────────まだ幼い恋を。

「失礼します」

 控えめなノックの後、流成はそう言いながら数学科の職員室に足を入れた。

「どうした?」

 職員室には、昼休みということもあって高岡しか教員はおらず、その高岡の前に東原涼太がいた。

 折り畳み式のパイプ椅子に浅く座り、どこか斜めに構えたその姿がらしく映った。

「どうしたって、学園祭の資料頼んだの、高岡先生ですよ」

 ちらっと一度だけ涼太に視線を走らせたが、涼太が自分を見ようとしてないのが悲しくなって高岡に笑い掛けた。

「あぁ、忘れてたちょっと待っててくれよ。ったくこの間題児が補習に出ないと意地を張るから………すまんな」

 高岡に軽く睨まれても全然動じない涼太は、どこか人を馬鹿にしたような半笑いを浮かべ、長い髪をかきあげた。

「だから補習の代わりならするって。でも、休みは一日として潰さない」

「前にもそう言ってたな。ったく、長期の休みになると家に居つかないらしいな。どこ行ってんだ? 噂じゃ女のとこを泊まり歩いてるって言うけど、本当なのか?」

「女が俺を放してくれなくてね」

 涼太が言うと、そんな台詞も冗談に聞こえない。

 実は中学生の皮を被った大人なんじゃないかと、高岡はこのとき思った。

 私服で歩く繁華街で逢ったなら、誰も中学生とは思わないだろう。

 制服でこんなに大人っぽい。私服なら尚更。

「補習の代わりったってなあ………この前の日曜の業者テストさぼったお前が悪い! 青葉から聞いてただろ? あれは重要だからはずすなど」

「聞いてたけど、その代償が補習だとまでは聞いてない」

 きっぱりと言いのけられ、高岡はため息をつく。

 理詰めでは涼太に勝てない。何を言っても結局最後は負けてしまう。

 でもそれは高岡だけでなく、ここの教師全員がそうだった。

「鈴木たちと切れて、お前が青葉と友達してるって聞いたときは、先生心底ホッとしたのに、ちっとも変わらんな」

「人間そう変われたら、三島も切腹しなくて済んだだろ」

 シニカルにそう笑われて、高岡はもう一度大きなため息をついた。

「このままお前と話してても埒があかん。期末で百点とっても、補習は課すからな。補習に出なかったら 留学の話もチャラ。それどころか、いまと同じ学年をもう一年やってもらうぞ」

「……………脅し?」

 高岡の言葉に、涼太の顔色が変わる。 怒気を含んで、部屋にいやな空気が立ちこめた。

「教師敵にまわしてなんの得がある? 怒ってるのは俺だけじゃない。倫理の吉野先生も、古典の秋月先生も それから………」

「先生」

 涼太をよく思っていない教員の名前を挙げはじめた高岡言葉を、存在を忘れられていた流成がさえぎった。

「学園祭の余興の指名受けたんですよ、ヴァイオリンの演奏を舞台でやれと。その伴奏者を探してるんですけど」

「あ?」

 いきなりの話の持っていきように、高岡は間抜けな声をだした。

 ただその意図が瞬時でわかった涼太だけが、忌ま忌ましげに舌打ちする。

「なんだ? 用事でもあるのか? 早く言ってくれれば」

 一人意味がわからない高岡は、チラつと時計に目を走らせた。

 流成も舌打ちしたくなったが、そこは優等生なので表に出さない。

「東原、補習に出る気ないですよ。満点とってもダメと言うなら、補習に出ない条件を学祭の余興にしたらどうですか? 見たところ東原はそういう茶番は大嫌いみたいだし、それなら他の先生たちも納得するでしょ。普段やり込められてる先生たちも」

 ひょっとしたら自分より知能指数が低いのかもしれない教師に、流成はわざわざそう説明した。

「ただの余興ですし、もし演奏が失敗しても笑って済むこと。いい案だと思いますが?」

「あ? あぁ、そうだな。よし、そうしよう!」

 やっと流成の言っていることを理解した高岡は、いい案だとほくそえんだ。

「東原も、全校生徒の前で恥をかきたくなかったら、いまから練習すればいい。大丈夫。簡単な曲を選ぶから」

 幼い恋。  たとえ好きな相手の嫌がることでも、それでもかまいたくなる。

 相手がつれないなら尚更。

「学園祭までニ週間ある。三日後から中間だな。平均九十以上も条件だ」

「腐っても教師か」

 皮肉いっぱいに涼太は言った。

 二学期のテストの成績は星陵に取って重要だ。

 次のクラス編成に影響する。

 成績がよければ、トップのクラスに配されることになる。

 高等部でも適当に流したいと思ってる涼太にとって、これほど忌ま忌ましいことはない。

 涼太にとっては、最高ランクの嫌がらせだった。

「死に物狂いで勉強して、なおかつピアノの練習もしなくちゃならん。いつまでも笑ってられないな」

 形成逆転とばかりに、高岡は鼻で笑った。

「お題はせいぜい前日までに報せてくれよ」

 かたんとパイプ椅子から立ち上がると、涼太は職員室を後にした。

 その悪までも崩れないクールな涼太の表情が、自信なのか、それとも鼻からこんな茶番に付きあう気がないからなのか、高岡も流成もわからなかった。

 ただ二人とも後日に、涼太の凄さを思い知ることになる。

 中間は学年トップ。平均点は九十七。

 この成績に誰も文句言えるはずはなく、学園祭での余興も絶賛された。

 流成のせつないヴイオリンと涼太の繊細なピアノは、リハーサルもなしのぶっ付け本番とはとても信じられないほどの出来栄えで、文句のつけようがなかった。

 短い三学期が過ぎて、流成と涼太は中等部を卒業した。

 流成は高等部へ。そして涼太は、米留学へと旅立った。

 一年後、二人は第一寮の一室で再会する。

 


【大切に想う記憶】