【小さな幸せ、未だ夢の中】

 

「涼ちゃん、涼ちゃん!!」

 優しい手に揺り起こされる。

 ゆっくりと眠りから覚めると、目の前に怒ったような康久の顔があった。

「もう! いつまでもダラダラと寝てんのや。明日からは学校なんよ」

 まだ寝ていたいと叫ぶ上半身を無理やり起こされて、涼太はまだぼんやりとする視界で部屋に備え付けの時計を見た。

 休日の九時。ダラダラというには、涼太にしてはだいぶ早い。

「もうちょっと……………」

「ダメッ! 約束やろ? 今日はたっちゃんたちと、僕のもの色々揃えてくれるって。急がな約束の十時に間にあわへん」

 もう一度寝かけた涼太の腕を、康久はカ任せに引っぱる。

「早ようっ! もう………涼ちゃんッ!!」

 ぱふっと涼太の上に落ちて、康久はそれを許さない。

 いままでは休みが来なければ、涼太とこうして戯れることもできなかった。

 それが、いまは二十四時間一緒のようなものだ。

 幸せだと感じる瞬間。

 少ない時間を、康久は涼太といたいと切望した。

 できれば二人だけで。でもそんなのは無理な願いだ。

 涼太にだって、自分と関わりのないプライべートがある。

 そんなわがままは通らない。

 それでなくても、涼太はは身体の弱い自分に必要以上に気をつかっているのだから。

「康久? どうした」

 自分の上でぱたっと動きをやめて、じっと自分の心音を聞いている康久を涼太は抱え込んだ。

「ゴメンネ。僕がわがまま言うたから、涼ちゃんまで………」

小さく眩く。

「ここの方が学校近いし、朝寝もできる。俺といれて嬉しいんじゃなったのか? 素直に喜んでろ。お前らしく」

「うん」

 小さくうなずいた康久を抱き起こし、「じゃ、支度するか」とやっとベッドから涼太は立ち上がった。

「あれ?」

 寝間着がわりのTシャツを脱ごうとした涼太に、康久は不思議そうに首をかしげた。

「涼ちゃんどっかにぶつけたん? ここ、赤うなってる。痛ない?」

 ちょうど脇腹の辺り、康久は指を差した。

 その赤い痕に身に覚えのある涼太は一瞬はギクリとしたが、「ダ二かなんかだろ」とさらりと嘘が出てきた。

「そうなん? 僕も刺されたらかなわんなあ」

 無邪気に笑い返され、その笑顔がまた涼太の胸を責める。

「飯は?」

 その笑顔から逃げるように、涼太は康久に背を向けて手早く着替えた。

「もうとっくに片付けられちゃったよ」

「食べてないのか?」

「せやかて、涼ちゃん寝てるし」

 着替え終わって振リ返った涼太を、康久は軽く睨んだ。

「俺が寝てたのと何の関係があんだよ。ひとりでも飯ぐらい食えるだろ?」

「涼ちゃんの寝顔見てたんよ。久しぶりやったし」

 普通なら歯が浮いて言えないような台詞でも、康久はさらりと口にする。

 きっと、何も飾らないから恥ずかしいと思わないのだろう。

 何も意識していない。思ったことを康久は口にしているだけだ。

「なに言ってんだよ」

  純真なままの自分の言葉が、涼太の良心を責めていることを康久は知らない。

「今度からはひとりでもちゃんと食堂行って、飯食えよ」

「わかってるよ、子供やあらへん。今日だけやし」

「どうだか」

 捌ねた康久の頭をこねくり回して、涼太は部屋のドアを開けた。

「途中で食ってくか………ほら、行くぞ!」

「うん」

 元気に康久が答える。

「あっ! でも涼ちゃん顔も洗ってへんよ」

「じゃ、ちょっと待ってろ」

 涼太はそう言うと、各部屋に備え付けの洗面所で顔を洗って歯を磨き、手早く手櫛で髪を整えた。

 もともとサラサラに細い涼太の髪は、なにもしなくてもきれいで、寝癖なんかもつかない。

「もう涼ちゃん、せっかくきれいなんやし、もっと気をつこうて」

 少しくせ毛ぎみの康久は、いつも羨ましいと思っていた。

「いいんだよ。ほら、いくぞ」

 急がなきゃと言いながら、呑気にべットの上に座って自分を見てる康久を、ドアを開けながら見下ろす。

「お出かけですか?」

 涼太がドアを閉じないように支えて康久を待っていると、流成がにこやかに顔を出した。

「あ、お早ようございます」

 突然顔を出した流成に驚いて、ぺコりと康久は流成に頭を下げる。

 涼太の方は、流成の顔を見ようともしなかった。

 そんなことには気にも止めず、康久に流成は「お早よう」と微笑み返した。

「門限は八時厳守です。遅れないでくださいね」

「はい」

 優しそうな寮長に、康久は心から笑いかける。

「いくぞ!」

 なにかを詮索される前に、涼太は康久を促した。

「約束の時間に遅れる」

「あ、そうやった。ご飯も食べなあかんのに。ちゃんと、門限までには戻るよって」

 軽く会釈して、康久は「早く行こう」と涼太の手を引っ張って歩きだす。

 背を向ける間際、ちらりと流成に涼太は冷たい視線を流した。

 その冷たい視線を受けとめ、流成は二人の後ろ姿を見送る。

 流成は何を考えているのだろうと、涼太はは心の中で舌打ちする。契約は成立していたはずだった。

 流成とそういう関係になることを承知することが、自分と康久の聖域を壊されない条件だと思っていたのに、なにかを康久に仕掛けそうな気配を見せる流成の意図が涼太にはわからなかった。

「涼ちゃん、どこでご飯食べてく?」 「え?」 「やだ涼ちゃん、まだ寝呆けてん?」

 寮の玄関で靴に履き替えながら、康久は自分よりずいぶんと背の高い涼太を睨んだ。

 涼太の寝起きの悪さは、血筋だと一度聞いたことがある。

 いつもダラダラとベッドでしてるのは、「低血圧だから」と本人が言ってたこともあったが、それはただの言い訳だと康久は見破っていた。

 涼太の従兄の二階堂起澄句の方が寝起きの悪さは上回るものの、それでも自分に比べれば涼太は寝起きが悪い。

 ちゃんと毎朝遅刻しないように起こすことが自分にはできるだろうか。

 なんとなくこれからの寮生活に、康久はちょっと不安を覚えた。

「えらいなあ。僕明日から授業に間に合うように涼ちゃん起こさなあかんて思たら、なんかえらい」

 それはすごく幸せな不安だけれど。

「違うぞ。授業に間にあうようにじゃなくて、朝食に間にあうようにだろ?」

「もうっ!」

 しれっとした康久の言葉に、ちょっと怒った素振りで寮の玄関を一足先に出た康久だが、内心はうれしくてしょうがない。

 憧れていた、こんな光景。

 ずっと夢見てたものが、いま現実としてここにある。

 あの夏、ずっと病気がちだった自分の「病名」を聞いてしまった日から、こんなことは叶わない夢なのだとあきらめていた。

 夢が現実になった理由を、こんなわがままが通ったその裏の理由を、康久は泣きたい気持ちで忘れようとしていた。

 でも、幸せすぎて逆に思い知らされてしまう。

 自分の夢の砂時計が、もう残りわずかなこと。そしてもう二度と、その時を刻むことができなくなることを。

 夢でいい。夢でもいいから、せめていまは醒めないで。

「涼ちゃん早いこ。時間ないから」

 自分に言い聞かせるように、康久はつぶやいた。

「大丈夫だ。きっと起澄句のヤツも寝坊して時間通りになんて来ないし」

 やさしく笑ってくれる涼太に、ずっと甘えていたいのにと、いまにも泣きそうな顔で康久は願った。

「なんて顔してんだよ。大丈夫、起澄句は十時にこない。賭けたっていいぜ、絶対三十分は遅刻する」

 そんな康久が何を考えているのかを覚ってしまっている涼太は、そんな不安をなくせるように必死に笑いかける。

 自分が康久にしてあげられることは、ずっと側にいることしかない。

 だけどそれは、康久の側にいたいと自分自身が切望していることだと、康久に伝えたい。

 絶対誤解しているから。

 好きで側にいるんだと、好きでお前に笑いかけているんだと、腹をかっさばいて見せられるものならさばいて見せたい。

 決して康久のためでなく、ぜんぶ自分のためなんだと。

 でもそれを言葉にしたところで、康久は信じてくれないだろう。

 その言葉すらも、自分のためについた嘘だと思ってしまうだろう。

「ご飯食べなくていいよ。だって間にあわへんよ、ご飯なんか食べてたら。たっちゃんが遅れてきても、青葉さんたちは時間に正確やろ?」

 確かに、と涼太はちらっと腕時計に瞳を走らせた。

 同じ血を引く従兄弟は気にしなくてもいいが、友達の青葉和樹(あおば かずき)は違う。

「しょうがない。駅に直行するか………腹、大丈夫か? ホントにいいのか?」

「平気。僕はたっちゃんじゃないんやし、お腹空いたぐらいで騒いだりせんよ」

 やっと笑ってくれる。その笑顔で涼太はホッとする。

 病は気から。ホントにそうなのだ。

 めいってるところに、病魔が巣を作る。

 些細なことでも気を病んでいけば、それがきっかけになりかねないと涼太は思っていた。

「だけど嬉しいな。僕たっちゃんと涼ちゃんしか知らんやろ? ちょっと不安やったし。でも、今日は青葉さんと、その幼馴染みの人紹介してくれるんやろ?」

「あと、和樹たちの後輩も連れてくるって言ってたぞ。康久と同じ歳だから、ひょっとしたら同じクラスになるヤツかもな」

「ほんま? えらい嬉しいなあ。いっぺんに友達できるなんて、夢みてるみたいや」

 休みがちになる学校では、友達などできにくかった。

 できたとしても、まるで義理のようにプリントや先生からの伝言を伝えてくれる、責任感の強い「友達」ばかりだった。

 そのわずかな友達も、クラスが別れればそれまで。家に遊びにくることもなかった。

 だから康久には、事実涼太しかいなかったのである。

 大切な人、康久にとって東原涼太は。世界でたったひとりの、肉親以外の。

 たった一人、縋れる存在。

「やっぱりこっちへ来てよかった。こんなことなら、もっと早うわがまま言うて来ちゃやえばよかったんやなあ。あっ! やっぱり青葉さんたち早う来てるやんか。な、涼ちゃん」

 駅の切符売場の前に見知った姿を見つけると、康久は嬉しそうに駆け寄った。

「お早ようございます」

 すっかり保護者のような涼太は、苦笑で頭を下げた。

「すみません、遅れてしまって」

 追いついた涼太は、やっぱり同じ保護者のような和樹の後ろに立つ人物に頭を下げた。

「いや、まだ二階堂も前田たちも来てないから」

「ったく! 起澄句(たすく)は待ち合わせの時間に来たためしがない」

 時計をみながら、和樹が頬を膨らませる。

  その姿を、苦笑でくすくすとみてる遠藤隆魅(たかみ)が涼太は妙に気になった。

 まるで鏡をみてるようでつらくなる。

 幼馴染みの和樹を好きでも、その想いを絶対言葉にしない遠藤と、康久を好きでもその想いは隠すしかないと思っている自分。酷似した遠藤隆魅の存在。

 同じだから、わかる。みていて、胸が痛くなるような気がする。

「和樹先輩!」

 和樹に遠藤を紹介してもらってたところへ、和樹たちサッカー部の後輩だという前田尚弥(なおや)と魚済征太郎(うおずみ せいたろう)が現われた。

 遠藤が気をまわして、和樹に進言して誘ったという二人だ。

 人懐こい二人だと、涼太は和樹から名前だけは聞いていた。実際逢って話しをするのは、涼太も康久も初めてである。

 その言葉通りだなと、もう康久と馴染んでしまった二人をみながら涼太は思う。

 青葉和樹には不思議な引カがあるというのが、涼太の青葉和樹に対する感想だ。

 和樹と友達として行動するようになったのは、クラスが一緒になった中等部二年のときからだが、その時からそう思っている。

 なぜか和樹のまわりには、和やかなやさしい風がある。

 本人も、まわりもそれに気づきはしないのだが、和樹に人気があるのはその風のせいだろう。

 もっとも、そのどっちかというと「可愛い」容姿も人を惹きつける要素のひとつだが。

 でもそれだけじゃないものを、和樹は持ってる。

 だから故意に人見知りする自分も、「友達」としていられる。

「涼ちゃん、たっちゃん来るまでそこのマクドで待つって。よかった、ご飯食べられるなあ」

「ああ」

 ちょうど一階がガラス張りになっているので、起澄句が待ち合わせ場所に現われれば見えるようになっている。

 携帯で連絡を取れば、家を出たことはわかったがまだ到着には時間がかかるらしい。

「よかったやん。青葉さんたちも、ご飯まだなんやて」

 無邪気にはしゃぐ康久を見ていると、康久の言ったようにもっと早くにこっちに呼んだ方がよかったのかもしれないと涼太は思った。

 東京の方が医療も進んでいるし、なによりもたくさんの友達に囲まれて充実した毎日を過ごせば、病気のにもいいだろう。

 すべてが悪い方向へ向かうわけじゃない。

 康久の笑顔が、涼太の昨夜の不本意な行為を洗い流してくれるような気がしていた。

 


「ゆずれないから傷つける、傷ついてゆく」