【やがて曇りゆく晴れた空】

 

【新入生入寮希望者名簿】を眺め、星陵学園第一寮の寮長はため息をついた。

 今年の入寮希望者は少ないほうだが、外部からの人間が三人。

 それに加えて、海外からの帰国子女が一人。

 そのことじたいは大してめずらしくも特別なことでもない、ため息の原因は他にあった。

「東原涼太(あずまば らりょうた)」

 その人物を寮長、小林流成(こばやし りゅうせい)はよく知っていた。

 知っていたというほど、簡単なものではない。

 初恋の相手でもあり、もう三年も想い続けている人物の名前だ。

 だけどわからない。涼太の実家は、学園からそう遠くはない。通えない距離ではない。

 ではなぜ?

 理由があるとすれば、たったひとつだった。

 エスカレーター制の学園に、わざわざ難関と知りつつ試験を受け、入学を果たした彼。

 華南康久(かなん やすひさ)の存在。  

 三重県出身と、その書類にはあった。

 そこにには、東原家の本家がある。

 涼太が休みののそのほとんどを、伊勢志摩ですごすのを、流成は知っていた。

 華南康久には問題がある。

 身体が弱いと、寮監は言っていた。

「東原涼太が入寮するのは歓迎するけど、邪魔者もまた一人」

 正直な嬉しさの影の、せつなさ。

 華南康久の入寮を拒否すれば、涼太もまた寮に入ることはしないだろう。

「さて。どうしましょう」

 微笑む口元。しかし、寮長の瞳は笑ってはいなかった。

 学園の裏手。敷地外道を一本挟んだ所に第一寮はある。

 鉄筋二階建て、一見は小奇麗なマンションにも見える。

 入っているのは、そのほとんどが遠方に実家を持つものや、部活動などで半ば強制に入寮させられているものばかりだった。

 その寮の一室、実質は寮長の私室と化しているドアを、派手な音を立て乱暴に開け放って入ってきた人物がいた。

 長い金髪を無造作に後ろで束ね、およそ高校生には見えない外見。

「どうしたんですか? 入寮日は明日の予定のはずですよ」

 流成はなにやら打ち込んでいたパソコンから目を離さずに、事務的にそう言い放った。

「同室希望者には、華南康久と指定したはずだぞ」

 まだ息も荒く、言葉も荒い。走ってきたのだろうか、肩も上下していた。

「希望は聞きました。聞きましたが、意に添えなかった。すみません」

 かけていた品のいいメガネを外すと、流成ははじめて飛び込んできた男を見た。

「俺の同室は康久だ。お前じゃない」

 愛しい人の口から出た冷たい言葉と視線を、正面から受ける。

 東原涼太。きれいな顔立ちだけに、すごむと迫力があった。

「なんの裏工作だ?」

「言いがかりですよ」

 流成は少しもひるまずに、優しく笑んだ。

「私とあなたが同室だということは、ただの偶然です。華南くんは身体が弱いとか? 彼の部屋は寮監の隣と決まりました。なにかあってからでは遅いでしょう?」

 当然という口調で、流成は涼太に同意を求めた。

「偶然? よくそんなとぼけた事が言えるな………学祭で俺をステーに引っ張りあげたときのことを、俺は忘れてないぜ。この性格破綻者」

  流成には忘れられない、涼太には忘れてしまいたい思い出を持ち出して、掴まんばかりに涼太は噛みつく。

 学祭の余興でヴァイオリンを弾くことになっていた流成のピアノ伴奏を、涼太がやらされるはめになった中等部三年の学祭は、涼太にはまだ記憶に新しかった。

「なら、寮監に談判だな」

  このまま流成と話していてもらちが明かないと思ったのか、涼太はきびすを返す。

「決定を覆せるのは、寮長の私だけだと言ったら?」

 部屋を出てゆく寸前、流成は涼太の背にそう言った。

 ゆっくりと涼太が流成を振り返る。その表情から、涼太の怒りが見て取れた。

「華南康久と、あなたを同室にしてもいい。でも、タダというわけにはいかない」

 流成は椅子から立ちあがると、涼太の前まで歩み寄った。

「条件があります」

「条件?」

「まずは……………」

 涼太の一肩よりも長くのばした金髪を掴んで、流成は微笑った。

「切れますか? ここまで伸ばすのは大変だったろうけど、私にしては少々目障りなんですよ。一年に寮風は乱されたくない」

 星陵学園は、自由な校風で校則という校則は存在しない。

 もちろん涼太が髪を脱色していようが、その髪を長く伸ばしていようがそれを理由に退学になどなったりしない。

「ちっ!」

 舌打ちした涼太は、流成を睨みつけたまま制服のポケットからジャックナイフを取り出した。

 なんの躊躇いもなくその髪を結んである付け根から切り落とす。

 プツリと音を立てて、涼太の体からそのきれいな髪が離れる。

 存在していた場所をなくし、くたりとしたその束を涼太は流成に投げつけた。

「これで満足か?」

 束縛を解かれた髪がサラサうとその頬にかかるのを、涼太はうるさそうにかきあげた。

「いつもそんな物騒なものを?」

 流成は薄く笑った。

「もう気づいているのでしょう? 私があなたに執着する理由を」

  流成の真っすぐな視線を受けて、涼太は引きつる。

「あなたが好きなんです」

 流成は、涼太ががいちばん言ってほしくないと思っている言葉を口にする。

「新たな嫌がらせか? そんんなに俺が目に障るか」

 涼太はそう誤魔化した。

 本当は、なぜこんなに流成に絡れるのかその理由を気づいていた。

 ぶしつけな熱い視線をしょっちゅう向けられて、なにも気づかないほど鈍感な男じゃない。

 だが、流成の想いに応える気など涼太にはさらさらなかったから、気づいていないフリをしていた。

「私が何を望んでいるか、あなたは知ってるはずだ」

 涼太の言葉に、一瞬顔を曇らせた流成。だが、退かずに言葉を繋いだ。

「あなたと華南を同室にする条件」

 自分の言葉に何も応えてはくれない涼太を、せつなそうに流成は見つめ、そっと手を伸ばして涼太のだらしなく結ばれたネクタイを掴んで自分の方にひいた。

 倒れこんできた涼太の唇に、自分の唇を重ねる。

「あなたを手に入れたい………私はあなただけが欲しい」

 もう一度重なった唇。でも、今度はおとなしくキスされた涼太じゃなかった。

「……………気に障った?」

 唇からポタポタと血が落ちて、その痛みに流成は顔をしかめた。

「ふざけたマネしやがって」

 血をみても、涼太は悪いなんて思ってなかった。

 それどころか、侵入してきた不均な舌を噛み切らなかったことを後悔すらしていた。

「そんな怖い顔しないでください………華南とあなたを同室にするよう、寮監には私から話を通しておきます」

 涼太はそれを聞くと、少しの間も流成の顔など見たくないように背を向けてドアを開けた。

「忘れないでください!」

 追いかけてくる声。

「あなたが好きなんです………」

 せつなく響く。

「俺は大嫌いだぜ、下衆」

 振りかえらず、涼太はドアを閉じた。

 流成はカなく椅子に倒れこむと、大きく溜息をつく。

 唇には痛みと、まだ震えるような感覚が残っていた。

「私はあなただけが欲しいのに………」

 つぶやきだけが部屋に残る。


「どうしたの涼ちゃん、その髪!」

 寮からは車で十五分という距離にある大学病院の一室、つい数時間前まで長かった涼太のいまは肩にもつかない髪をみて、華南康久は一瞬言葉を失くしてしまった。

「気分転換」

 そう笑った涼太の、そのどこかさっぱりした表情に康久はホッと息をついた。

「何かいいことでもあったん?」

 読んでいた本を、膝の上から備え付けの棚に移動すると、ベッドの横に座った涼太の方へ体を向ける。

「その逆だよ。最低、最悪」

 言っていることと反対の、流成を相手にしてたときとはうって変わって優しい表情の涼太。

 流成が見たら、その胸にわく黒いものを隠せるだろうか。

「そうなん? でも長いのもよかったけど、短いのも涼ちゃんは似合うんやね」

 儚い笑み。

 康久を見ていると、涼太は康久が空気に溶けてしまいそうな気がして仕方なかった。

 いつか目の前からいなくなってしまう………そんな気が。

「明日退院できるで。もう検査結果もぜんぶ出たし、入寮日に間に合うてよかった」

 人から無条件な笑顔を向けられるのが、ずっと嫌いだった。

 それが、康久に出会って変わった。ずっとみていたいと思う。

「どうしても俺ん家じゃ駄目なのか? 遠慮してるって言うなら、どこか近くに惜りて一緒に住んだっていいんだぞ」

 騒ぎだした嫌な予感の虫。流成のことを思うと、涼太ははあの寮に康久を入寮させたくはなかった。

「なんか今日の涼ちゃん変。僕ね、団体生活に憧れてたんよ。せやから、こればかりは涼ちゃんがなにゆうても、変える気はないし」

 大人しい康久が、その裏一筋縄ではいかない頑固者だということは、涼太が一番知っていた。

 そうでなければ、こんな空気の汚い東京の学校にくることを、涼太が折れるわけがない。

 涼太の猛反対を押し切るその頑固さは、康久の長所で短所。

「今晩眠れるやろか。だって、涼ちゃんと同じ学校にまぐれでも入れて、そのうえ同じ学年やて。明日からはずっと一緒なん、夢でも見てる気ぃする」

 ふんわりと、本当に夢でも見ているかのように笑う康久。こどもの頃から変わらない瞳。

 それは涼太のわずかな良心を、ちくりと責める。

「ここまで、温情で留年もしないでこれたやろ? それだけでも凄いな、思うてるのに涼ちゃんが帰国子女ってことで留年なんて、神様っているんやね。あ、ごめんね、涼ちゃんは嬉しくなんかないんよね、留年なんて」

「嬉しいよ」

「ホンマ?」

 自分が康久をどう想っていようと、こんな純粋な瞳を向けられたら涼太は「保護者」になるしかなかった。

「大好き、涼ちゃん」

 純粋な康久に、不純な自分。

 もうずっと自分は康久を編しているのだと、涼太は思っていた。

「………以上が、寮則です。何かわからないことがありましたら、遠慮なく私に聞いてください」

 食堂で事務的に寮則を説明したあと、流成は「よろしく」と微笑んだ。

「いい感じの人やね、寮長さんて」  康久が、そんなことを涼太に耳打ちする。

 涼太は、なにも答えなかった。答えられなかった。

「それじゃ、もう部屋の方に戻っていいですよ」

 流成のその言葉を聞くや、涼太は康久の腕を掴んだ。

「荷物の片付けの続きだな」

 早くここから出ようと、涼太は康久を促す。

 一秒たりとも、流成と同じ部屋にいることが涼太には許せなかった。

 なのに。

「涼太!きみには特別な話が残ってるから」

 部屋を出掛けた涼太を流成が呼び止める。

「じゃ、涼ちゃんの荷物そのままにしておくし。早く帰っておいでね」

  康久にそう微笑まれ、涼太はこの場に残らずをえなくなってしまった。

 丁度いいとも思う。康久に、流成とのごたごたを見せたくはない。

 何より、康久を巻き込みたくない。先に部屋に戻ってくれるなら、それがいい。

「彼があなたの大事な人ですか?」

  涼太の眉間のしわをみて、流成はくすくすと笑う。

「プラト二ツク。見ている私の方が何だか歯痒くなりますね。涼太は……………」

「気やすく人の名前呼んでんじゃねえよ! 前にも言ったはずだ。馴れ馴れしい」

 言ってしまってから、涼太はしまったと顔をしかめた。

 流成を傷つければ、それは自分ではなく康久に憎しみが向かうかもしれない。

 それだけは避けなければいけなかった。絶対に。

 純粋にただの高校生活が送りたくてここにいる康久を、よけいなことに巻き込みたくない。

「場所を変えましよう。運良く私の部屋は一人部屋なんです」

 意図のある視線を涼太に流すと、流成は食堂を出た。

 涼太も仕方なくあとにつづく。

 廊下では見知った二年とすれ違ったが、誰も好奇の目で二人を見ていた。

 涼太が密かに舌打ちをする。

 星陵にずっといる輩は、流成が涼太にことあるごとに絡んでたのを覚えている。

 またなにかあるのだろうかと、期待半分で楽しんでいる。

「ドアぐらい閉めてくださいね」

 部屋には入ったものの、ドアの側から離れずドアも開きっぱなしにしている涼太にそう言う。

「見られたくないでしょう? 特に誰かさんには」

 それでも動かない涼太の脇を擦り抜けて、流成はバタンとドアを閉じた。

「不機嫌を隠さないんですね、あなたは」

 閉じたドアに掠太を押しつけると、涼太に接吻ける。

「なにが優しそうないい人だ。聞いて呆れるな」

 唇が離れると、手の甲で口を拭いながら涼太は毒突いた。

「彼が私をそんなふうに? 光栄ですね」

 涼太を抱きしめ、耳元に「愛してます」と囁く。

 涼太は、なにかを思いきるように目を閉じた。

 もう一度重なった唇。流静は細く目を開けて、涼太をベッドの上に引き寄せる。

「私の愛を信じないならそれでもいい。でも、あなたに選択権はない」

 涼太の胸に顔を埋めて、自分の手で制服のボタンを外した。

「身体だけでいいんだな」

 接吻けを交わしながら、涼大は溜息混じりに流成の顔を見た。

「心まであなたはくれないでしょう?」

 額にかかる涼太の髪をかきあげて、吸い込まれそうな瞳を見つめる。

「私には、名前で呼ぶことすら許してくれないのに、彼は当然のようにあなたを名前で呼ぶ。それも、あんな呼び方で」

 切ない声が耳元をくすぐる。  涼太が女を抱くとき、何人かの女が流成と同じことを口にした。

 気持ちがなくても、あなたに抱かれたい。  そう涼太に言った女が何人かいた。

 その女の顔を思い出している間に、ひとつひとつ外されてゆくボタン。

「あなたに護られることを、当然としてる。あなたが横で微笑むのを、当然のように独占して……………心まではくれないのなら、せめて身体だけでもあなたが欲しい」

 吐息ひとつ。瞬きひとつだけでもいい。許されるのなら、自分だけのものにしたいから。

 それは、些細な哀しい願い。

 何かひとつでいいから、愛する人を独占したい。

 視線でもいい。そのためなら憎まれたっていい。そう思える愛だってある。

「いまだけでいい。その瞳に私だけを映して………微笑んでなどくれなくていいから」

 なにを言えば涼太が手に入るのだろう。なにを言っても手には入らない。

 流成にだってそれはわかっているが、もうこの感情を止めることなどできない。

 そして涼太は何度も求められる接吻けに応えながら、また康久に対して罪を重ねると胸を責めていた。

 流成の手で紡ぎだされる、快楽と後ろめたさ。流れてゆくことは、なんて魅惑的なのだろう。

「優しくなんて抱けないぜ、俺は」

 流成は涼太に抱かれながら、康久の純粋な瞳を思い出していた。

 


 

【小さな幸せ、未だ夢の中】