そのなな

 

「雪ちゃん!」

 寮の廊下を、トイレに向かってふわふわ飛ぶように歩いていた雪ちゃんを捕まえた。

 東堂先輩に急な部屋替えの訳を聞こうと思っていたのに、部屋に誰もいなかったから、探し回っちゃったじゃないか。

「わぁ、びっくりした………渉くんどうしたの? なんか怖い顔してるよ?」

 相変わらずのぽややんな笑顔に、一瞬ほんわかしそうになっちゃったけどそういう場合じゃない。

「ごめん、東堂さんは?」

「要ちゃん? なんか今日は用事があるとかで、もう登校しちゃったよ。なんか夜中にバタバタやってたし、トラブルかも」

 夜中にドタバタってのは、多分工藤の部屋替えのことだろう。

 トラブル? トラブルってなんだよ。そんなんなかったよ!

 いや、なかったわけじゃないけど………表立ってはなかったはずだ。

「じゃあ、工藤知らない?」

「要ちゃんと一緒。なんか二人してコソコソ話てんの。僕にはまだ秘密みたいだから聞かないフリ〜」

 両手で耳を塞いで見せた雪ちゃん。その様子だと、マジで夕べのこととかはしらなそうだ。

 でも意外だった。

 雪ちゃんて、人のこと変に詮索しないんだ。

 俺なら、部屋でひそひそ話し込んでたら、割り込んででも知りたがるだろう。

 独特な雰囲気の世界で生きてる雪ちゃんらしいけれど、いまはそのまっすぐさが恨めしかった。

「いったいなにが………」

 なにがなんだかわからないから、イラつく。

「渉くん。そんなにしちゃだめだよ」

 雪ちゃんが、添えるように頬に手で触れる。

「りっちゃんと喧嘩したの? りっちゃん、渉くんの笑った顔が好きなんだよ。だから、そんな顔しちゃだめ」

「笑った顔って………」

 そこではじめて、俺は自分が歯を食いしばっていることに気がついた。

 きっと顔つきだって、険しくなっていただろう。

「喧嘩にもならないよ。だって、アイツなにも言わずに部屋を出て行った。きっと俺にあきれたんだ。だから田中と部屋を替わって………」

「りっちゃんが!? そんなはずないよだって………渉くん!?」

 なんで涙が出るんだ?

 雪ちゃんだってビックリしてる。俺が一番ビックリしているけど、気持ちとは関係なくただ涙があふれてきた。

「な、なにか訳があるんだよ。だって、りっちゃんが渉くんにあきれるなんてありえないもん!」

 わたわたと慌てて出したハンカチで、痛いぐらいに雪ちゃんが俺の顔を拭く。

  だけどあとからあとから流れてきちゃって、もう自分でもいい加減止めたいと思うのに、収拾つかない。

「渉ちゃん、部屋行こう。僕のとこ。ね?」

 雪ちゃんのありがたい申し出に、俺はこくんとうなずいた。

 こんなトイレの側で泣いていたら、注目の的だ。

 幸い誰も通りかからなかったけど、遅かれ早かれ誰かがトイレに来る。

 泣いてて前があまり見えてない俺の手を引いて、雪ちゃんは部屋に案内してくれた。

 入るときに一瞬、東堂先輩がいたらどうしようと思ったけどもう登校したというのは本当で、制服も鞄もなかった。

「ご、ごめん、おれっ………うっ……」

 部屋に入ったら安心したのか、今度は嗚咽まで出てきて上手く喋れない。

 まぁ、喋った所でなにをどう説明していいのか、自分の中で整理もついていないのだけれど、ぎゅっと手を握ってくれる雪ちゃんの手があったかくて暴走してる。

 張っていた気が、プツっと切れた。そんな感じ。

「大丈夫。大丈夫だから、ゆっくり落ち着こう。僕ずっといるから、ずっとこうしてるから」

 泣きじゃくる俺を、雪ちゃんが抱きしめてくれた。

 あったかくて安心するけど、小柄な雪ちゃんと工藤との違いを思い知ってもっと泣いた。

 工藤は俺をすっぽり抱きこんで、あったかいというよりは熱い感じだった。

 こんなに優しくはなく、もう荒っぽかったけど、口で抵抗するほど抱きしめられて寝たりするのは嫌いじゃなかった。

 あの腕はもうないんだと思ったら、胸のどっかに穴が空いたみたいにすごく寂しくて悲しい。

 だからこんなに涙が出るんだ。

 俺、嫌がってたのに嫌じゃなかった。

 本当は嫌じゃなかったんだ。

 いまになってわかるけど、もう遅い。

 俺はあの腕を、失くしちゃったんだ。

「ごめん………もう大丈夫………」

 どれぐらい泣いたのかわからないけど、やっと涙が枯れたみたいにもううっすらとしか浮かんでこなくなった。

 俺が落ち着くまで、本当に辛抱強く待ってくれた雪ちゃんと身体を離そうとした時、カチャリと扉が開く音がした。

「雪っ!」

 突然の怒鳴り声にビックリして入り口のほうを見ると、いままでみたこともない険しい顔の東堂先輩が立っていた。

「なに? 要ちゃん」

 そんな東堂先輩を見ることもなく、雪ちゃんはハンカチでたぶんぐちゃぐちゃなんだろう俺の顔を丁寧に拭いてくれる。

 心なしか、雪ちゃんの声が冷たかった。

「すごい顔だね」

 そう俺に笑った雪ちゃんはいつもの顔なのに、部屋の空気が冷たい。

「なにか忘れ物でもしたの?」

 気のせいじゃない。やっぱり、雪ちゃんの東堂先輩に対する態度が素っ気ない。

「もう授業始まってるんだぞ! なに二人きりで部屋でこんな………雪!」

 雪ちゃんがぜんぜん自分を見ないことに腹を立てたのか、東堂先輩は雪ちゃんの手を掴んで無理やり俺と引き離した。

 こんな東堂先輩ははじめてみて、俺は面食らってただ二人のやりとりを見守るしかない。

「痛いよ! 離してっ」

 ぴしゃりと言った雪ちゃんに、東堂先輩は慌てて手を離す。

 掴まれた雪ちゃんの手首が赤くなってて、東堂先輩が本気で怒ってるんだってわかった。

「ご、ごめんなさいっ。お、俺が引きとめたんだ。雪ちゃんはただ慰めてくれただけで、なにも悪いことなんて………」

「うるさい」

 すごく低い声に、俺は黙った。

 こ、恐いっ。

 普段穏やかな人が怒ると、本当に恐いんだ。

 あっちゃんがそうだった。

 いつもはすごく優しくて、すごく甘いのに、怒ったときは家族の誰より恐かった。あのじーさんよりも。

「うるさいのは要ちゃんだよ。出てって。一時限目は休むけど、ニ時限目からはちゃんと出るから」

 雪ちゃんも恐い。

 なんで!? なんでこの部屋の空気はこんなに重くて冷たいんだ!?

「雪っ………っ」

 東堂先輩が雪ちゃんに跪いたと思ったのは、錯覚だった。

 だけど、それぐらい切羽詰ったような声で。

「文句ならりっちゃんに言って。僕、怒ってるんだから。りっちゃんにも、要ちゃんにも!」

「雪、でもっ………」

「いいから出てって!」

 引かない雪ちゃんに、東堂は仕方なく部屋を出て行くしかなかった。

「ごめんねぇ、渉ちゃん。でも、びっくりして本当に泣き止んだみたいだね」

 そうほんわか笑う雪ちゃんと、さっきの雪ちゃんは同一人物!?

 

 


 

そのはち

 

サイト、ひさびさの更新でした。
ここんとこ、同人とDOOLとサイトのバランスが上手く取れなくて、自分の責任だけのこっちは後回しになりがちでさ。
書きたいなーとか思いつつ、こんなに時がたってましたとさ。
さて、やっと話が動いてまいりました。
この先一気にENDに向かって………とその前に、もう人エピソードはいる予定です。

 

2004.08.24