初恋
「先生、穂高先生!」 婦長の俺を呼ぶ声を、できれば聞こえない振りしたかった。 でもこの宿直室に二人きりという事態では、そうもいかない。 寝たふりにも限度がある。 「穂高先生! 起きてらっしゃるんでしょ? いいかげん、ベッドから出てきてください!」 「……………はい」 嫌だ。起きたくない。このベッドだって、数分前にやっと急患から開放されてもぐりこんだばかりなのだ。 また新しい急患というなら、飛び起きる。でも、絶対違う。婦長じきじき俺を呼びに来たってことは、呼んでるのは今にも死んでしまいそうな血だらけの患者じゃないんだ。 「またですか? 俺、今寝入ったばかりなんですけど………」 婦長にイライラをぶつけても仕方ないけど、何で俺なんだ。 「またですよ。早く行ってください。ご指名なんですから」 「でも、急患が………」 「大丈夫。さきほど斎藤先生が出勤なさったから、穂高先生はフリーですよ」 いつも遅刻ばっかりしている斎藤先生は、こんなときだけ時間通りなんだ。 嫌味のひとつも顔を見て言ってやりたいが、インターンの身で自分の指導医にそんなことできるはずもなかった。 「どうしても行かなきゃだめですか? 帰宅したとか嘘言えませんかね」 絵にかいたような太目で年配で強面の婦長に、伺うように懇願してみたけれど、その首は縦に振られることはなかった。 「わかりました。行ってきます………」 がっくりと肩の力が抜けてしまう。 まったくのペーペー。仕事なんて指導医がめんどうなことを押し付けられ、雑用みたいなものだ。地位だって看護婦のほうが病院を知っているだけ上だ。 俺の意見が通ったためしなんてないんだ。ここでは。 「ふぅ………」 ため息をつくと、幸せが逃げると姉さんがいつも言っていたけれど、幸せなんてとっくに足が生えて逃げてしまったよ。 気が重いには理由がある。 今から行く特別病棟には、某有名芸能人が一昨日入院してきた。 二年前に骨折箇所に入れていたボルトを抜くための入院だが、病気じゃないから本人はいたって元気で、ただの元気ならいいんだが………無駄に元気。 だいたい、いまは夜中の一時過ぎだぞ。消灯はもうとっくにすぎているって言うのに、芸能人てだけでこんな特別扱い許すなんて。 部屋の入り口のプレートの名前を睨んだところで、本人は痛くも痒くもないだろうけどさ。 「なーにそんなとこで………入ないの? 俺、いつまで待たせるの?」 「うわぁっ!」 いきなり扉が開いて張本人が顔を出したから、本気でビックリした。 「シッ! いま夜中だよ? だめじゃん、そんな大声」 唇に人差し指を押し立てて、静かにとウインクする。 俺も慌てて自分で自分の口を塞いだ。 「こんな夜中になんなんだ? やっと急患が終わって仮眠を取ろうとしたとこなんだぞ! だいたいなんでそんカッコウなんだ? パジャマはどうした。TシャツとGパンなんて、抜け出すのか」 ひそひそ声だがちゃんと文句を言ったが、ぜんぜん聞いてない風で。 「ここにこのままいると変でしょ? 中においでよ。俺だって患者だよ?」 ニヤリと笑う。 その顔にドキリと胸が高鳴ってしまったのは、仕方のないことだ。 だって目の前のコイツ────────── は、若手俳優の中では「超」がつくほどのイケメンで、婦人雑誌の「抱かれたい俳優」じゃもう三年連続でトップほ取ってしまうほどのやつなのだ。 そんなやつに、こんな至近距離で微笑まれては、老若男女誰だってときめくだろう。 「ほらほら。ね? 大丈夫。抜け出すわけじゃないよ、ただ、志樹に会うのに野暮ったいのはいやだったから着替えたんだ」 わかっててやっているとしか思えない悩殺微笑で、若宮は俺の手を取って病室の中へと引き入れた。 「逢いたかった………」 扉が閉まるや、閉じた扉に俺を押し当てて抱きすくめる。それどころか、耳元をくすぐるようにそんなことを囁くなんて、反則だ! 「よ、よせよ………」 抗おうにも、後ろは扉だし若宮はがっちり抱きこんでるし、暴れたり大声出したりするにはちょっと………な時間だから、必死に言葉だけでも抵抗する。 「若宮っ! んっ………」 しかし最後の抵抗は、唇でふさがれてしまった。 逃げられないのをいいことに、閉じた唇をこじ開けて舌が入り込んでくる。 ドンと若宮の胸を叩いたところで、ビクともしない。 「ふっ………んっんん」 絡めとられた舌がしびれるぐらい甘いと思った。 「志樹は? 逢いたくなかった? 俺といたくない?」 唇が離れて、耳の後ろを食むように若宮の唇が動く。 早急な指先が、白衣を割って進入してくる。くすぐったさに上を向いたとき、若宮と視線がかち合った。 「志樹………俺と、こういう事するのいや?」 捕らわれたら逃げられない瞳。 遊びなのか、それともただのドラマかなんかのための「経験」が欲しいからだけなのか、本当のところはよくわからないけど若宮にこんな風にされたら、拒むことなんてできない。 「いや?」 俺が答えないから、若宮は繰り返す。 いやじゃない。でも、いいわけでもない。 「まだ勤務中なんだ」 本当は流されてしまいそうな自分がいるのに、なんとか言えた。 「じゃ、勤務終わったら来てくれる? 続きやってもいい?」 チュッ、チュッっと音を立てて額や頬にキスをする。 こんな蜜月みたいなことされると、胸が痛む。 いまは医者と患者という立場だからこうしているけど、退院したらもう若宮はブラウン管の中だけの人。俺とは違う世界だ。 本気になったら………溺れたらだめだと自分に言い聞かせる。 逢えなくなった時、辛いのは自分なんだから。 「プライベートは病院から離れることにしてるんだ」 嘘じゃない逃げ口上を口にしたら、それまでの甘さが嘘だったみたいに若宮は俺から離れた。 「プライベートになったら、また男探しに行くの?」 少し責めるような目に、唇を噛んで耐えた。 若宮はベッドまで戻ると、煙草を口にくわえる。 罵られてもいいようなことを、俺はしてきた。 淫乱症という言葉が当てはまるのかもしれない。 自分の性癖を許してからは、時間が空けばその手の場に繰り出し、フリーセックス。好みが合えば即ベッドみたいな生活を繰り返していた。 若宮と逢ったのもそうだ。 もっとも、俺は若宮のことはぜんぜん覚えていなくて、この病院で再会するまで、いや、再会したところで記憶になんてなかった。 誰といつ逢って、どんなSEXしたのかなんていちいち覚えていない。 若宮が人気俳優だと知っていたら覚えていたかもしれないが、テレビなど見ない俺は、芸能界なんて胡散臭いところに明るくなかった。 きっと、それが若宮には新鮮だったのだろう。 看護婦が色めきたって騒ぐあの様子からすると、どんなときでも視線に晒されてうんざりしていたのかも知れない。 まったくそういう話をしない俺に興味が出ても、不思議じゃない。 だけど、だからといって別に恋人関係でもないのだから、こうしてセクハラみたいにされるいわれもない。 例え、俺自身が若宮に惹かれている事実があっても。 「君にプライベートのことを責められる筋合いはないね」 「俺、好きだって言ってんじゃん。志樹のこと本気だよ? なんで信じてくれないの?」 「そういうことじゃなくて」 そんな傷ついたような目でみないでくれ。胸が苦しくなる。 まるで俺が悪いみたいだ。 「昨日だって、嫌だって言ってもあんなにノリノリだったじゃん。身体だけが目当てなのは、志樹のほうだろ?」 昨日………正確には十時間位前のことを持ち出されて、カッと頬が熱くなった。 ちょっと油断して背中を向けたときに後ろから抱きしめられ、耳朶を舐め上げられて、囁かれて、身体に火がついてしまった。 自分でも抑えられないものが暴れて、その熱を冷ますには吐き出すしかなくて、それも自分の手じゃ満足行かない。 誰かに吐き出されてはじめて、自分の熱も冷める。 「あの時だって、俺がシャワー浴びてるうちにとっとと帰っちまって、名前も教えてくれなかった。俺がどんだけ探したかわかる? 出会った店にも通ったけど志樹はぜんぜん姿を現さないし、知ってる人がいたって口が硬くて教えてくれない。あきらめかけたとき、こんな場所でまた逢うなんて、俺は運命だって思ってんのにさ」 「運命なんかじゃない。ただの偶然だ」 「運命だよ」 強く言われて、本当に若宮がそう思っているのはわかった。 探したといわれて、いつもの自分ならきっと「いい迷惑だ」ってより拒むだろうに、嬉しく感じるなんてどうしたんだろう。 触れられただけで、身体の奥にチリチリとなにかに火がつく。 目の前の若宮を見ていると、その火がどんどん大きくなってくる。 同じ男と二度寝ないという信条を崩したからなのか? だから若宮のことがこんなに気になるって言うのか? 望んでないつもりでも、深層心理の部分では若宮を………。 「志樹はずるいよ。嫌だって言いながら、そんな色っぽい目で俺のことを見つめる。本当は俺のこと欲しいんだろ? いいよ、いくらだってあげるよ、志樹になら」 俺はそんなにもの欲しそうな目を? 内情が表面にまで出ているのかと、とっさに部屋備え付けの鏡に目をやったが、この場所から自分は映りこんではなかった。 「認めたくないのもわかるけど、俺だって俺に好意をもってくれてるかそうでないかぐらいわかるよ。わかったから、少し強引な手とか使って、志樹を本格的におとしにかかってるんじゃないか。本気だから、俺のいないところでまた別の誰かに抱かれるかもしれない志樹が許せないんだ」 若宮が煙草を消すと立ち上がり、俺の肩をを掴んで、若宮は鏡の前に引き出した。 「自分がどういう顔してるかわからない?」 目をそらそうとしたけど、後ろから顎を捕まれて自分を直視させられる。 「眼鏡越しだってわかる潤んだ目で、少し紅潮した頬。赤みを帯びた唇。知ってた? 無意識だろうけど唇を舐める癖。おかげで、こんなに艶っぽく見える」 ついと唇を指が撫ぜて、ラインをたどる。 「あっ………」 指がぐっと口を割り開いたのに驚いたが、その指を噛むことはできなかった。 「この舌の気持ちよさに溺れそうになるのを必死で我慢する。志樹がなんでもないときにチラっと見せるだけでも、俺の欲情を刺激する」 言われたことは本当だ。欲に流された自分の顔を見たのははじめてだが、こんな目で見ていたのなら若宮がちょっかいをかけてきても文句は言えない。 自分の性が、本当に憎らしかった。 若宮だけじゃなく、ひょっとしたらの好みの男を見る目つきはすべてこうなんかじゃないかとさえ思える。 どうりで、ちょっと粉をかければ男が落ちたわけだ。 「もうこんな顔、俺以外のやつに見せないで欲しいんだ。仕事柄浮ついてるって思ってるかもしれないけど、志樹にだけはそう思われたくない。志樹にだけは俺を信じて欲しい」 強く抱かれた温もりが心地よくて、めまいを覚えた。 「運命」という言葉を否定しながら、本当は自分がいちばんその言葉を気にしていた。 ただの偶然を、ただの快楽を、ただの戯言を、「運命」だと本当は思っている。 「志樹………」 若宮は俺を正面に向かせると、鼻がつきそうなぐらい近くに顔を寄せて囁いた。 長い睫毛の奥の瞳が真摯で、そらせない。 「俺のぜんぶ志樹にあげるから、志樹は俺だけのひとになってくれない?」 いまここにいるのが女だったら、卒倒するだろうか。 ドラマの中のセリフのような言葉も、若宮が言うとキザに聞こえないのはなぜだろう。 「ね? 志樹。俺は志樹だけだと約束する。だいいち、俺には志樹がまぶしすぎて他になんて目が行かないけどさ。志樹にも、俺一人だけの人になって欲しい」 「わかった」 「えっ」 いつまでも意地を張って、言い訳ばかり並べるのも疲れた。歯の浮くような、赤面なしでは聞いていられないまっすぐな告白もこれ以上は身体に悪そうだ。 奔放な性生活を嫌っているのだから、若宮一人に絞ってしまえばいいのだ。 そう思うなら、これはいいチャンスじゃないか。 「志樹? なんて?」 「自分で口説いておいて、返事を聞き返すのか? わかったと言ったんだ。お前だけにしてやる」 きょとんとした顔に、笑ってやった。 「志樹ッ」 「おい、んっ………ふっ………」 噛み付くようなキス。喰われてしまうのかと思うぐらいの、激しい。 搾り取られるように吸われたあと、やっと開放された。 「すげー嬉しい!」 「お、おい。なんで脱がして………こらっ!」 白衣のボタンをいともあっさりと外してしまって、その手はベルトにかかる。 「なんでって、意思が通じたらさ、次は身体でしょ?」 なにを今更という口調で、若宮はトンと俺をベッドに突き倒す。 「うわっ!」 ばふっと大きな音に、看護婦の誰かが駆けつけてこないか不安になったが、思えば婦長以外の看護婦は許可が下りない限りこの特別病室に近づいてはいけない決まりがあるからその心配はないか。 婦長もさっき仕事が上がったから、ナースコール押さない限りは誰もこない。 だからといって、よしじゃぁいっか、というわけにも行かないのだけれど。 「若宮っ!」 大声を出すわけにも行かないから、小声で抗議の声をあげる。 「こ・ど・う! いつまでも若宮って呼ばれると、なんか嫌だ」 「若み………こ、虎道」 名前を呼び合う間柄など作ったことがなかったから、妙に照れくさかった。 「感動〜。志樹の声って、俺の下半身に直接響くんだよ。名前なんて呼ばれちゃったら、もう止まらない」 「止める気なんて、さらさらないくせによく言うよ」 喋っている間も、俺を脱がしにかかる手は休めない。 俺も抗議しながら、ズボンを下ろすときは腰をあげたりして協力してる。 そればかりか、若宮のズボンも早々に脱がしてしまった。 「すごい、もう完起ちじゃないか」 飛び出さんばかりに下着を持ち上げているものを見て、思わず笑ったら、若宮は少し拗ねたように唇を尖らせる。 「だって志樹がそんな色っぽい目で見るから、もう臨戦体勢だよ」 「そのままいろ………」 俺の上に立膝だった若宮。その足の間から這い出て、窮屈そうにしている下着に手をかけた。 「志樹?」 「いいから、俺にやらせて」 邪魔なだけな本当は必要ない伊達眼鏡をたたんで、ベッドサイドのテーブルに置く。 硬く天をあおぐようにそそり立っている若宮に、そっと唇を近づけた。 頭の上で若宮がグッと息を飲む音が聞こえる。 「志樹………」 口の中に迎え入れると、若宮がかすれた声で名前を呼んだ。 何度か深く浅く上下させただけで、硬度が増す。 「んっ………」 くちゅっとした湿った音と、自分でも甘いと思う鼻にかかる声。チラッと盗み見た若宮は、眉間にしわを寄せて目を閉じ、必死で堪えているように見えた。 「あっ………し、志樹っ………そんなに強く吸ったら………っくっ」 肩を掴まれたが、無視してより深く咥えこんだ。 「志樹ッ………だったら………」 「フグっ んっ………あぁ………」 下半身に手を伸ばされて、ちょっと強く握りこまれた。 俺だって臨戦体制だったから、その刺激に噛みそうになったが何とかとどまる。 「志樹の………もうこぼれてる」 透明な体液を指にからめとり、見せつけるように眼前に持って来たが、そんなのは若宮だって同じなので気にならない。 そんな煽りはいままで散々されてきたから、今更恥ずかしく思わない自分が嫌だった。 「んっ………わか………んっ」 まだ油断すると苗字で呼んでしまう。若宮は、抗議するみたいにまた強く握ったが、慣れないのだから仕方ない。 俺も抗議の意味をこめて、もっと舌を使ってやった。 「志樹ッ!………っっ」 イキそうだったのか、慌てた若宮に身体を引き離された。 「選手交代。やっぱ俺、志樹が気持ちいいって顔見たほうがいいや」 一般人ならこんな裸でニカっと笑ったらマヌケだろうに、若宮だとなぜこんなにカッコイイのだろう。 言われなれたと思うようなセリフでも、胸が高鳴る。 こんなことを思うのがこっぱずかしくて絶対若宮には言わないでおくが、「恋」しているみたいだ。 それもはじめての。 若宮の動向に、いままでにない動揺を覚える。 こんなこと思ったこともないのに、若宮の笑った顔をいつも見ていたいだなんて。 五つも年下の男に振り回される日々もいいかななどと思う日が来るなんて、夢にも思わなかった。 煩わしいだけだと思っていたことが、若宮が相手だとそう思わない。むしろ望んでる。 これが「恋」じゃなくてなんだというのだろう。 自分の中にはじめて芽生えた感情は少し酸っぱくて、酷く居心地が悪いが嫌な気分でもない。 「虎道………俺が好きか?」 自分の中の感情を認めたら、すっと胸が軽くなった。 「好きだよ、めっちゃ好き。俺、こんなに必死に口説いたのはじめてだよ」 テレ笑いに染まった頬に、キス。キスされ返されて、唇で受け止めあう。
愛されるのは、悪くない気分だ。 |
ぴんからシスターズのコピーからの再録です。 2003.02.12 |